1:家庭教師でもしたら?

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1:家庭教師でもしたら?

 一学期の終業式。  夏休み前日、高校生がこれほど浮かれてしまう日はなかなかない。  ただ今日は雨だった。  私は朝早くから濡れたスカートを気にしながら、屋上を目指す。  二重の南京錠が不気味さを演出している。  屋上までの階段で腰を下ろした。  扉の向こうへは鍵のため行けないが、人通りは全くなく、体育館裏などと異なり雨も凌げて、秘密の話をするには最適な場所だった。 「ごめん、待たせた」  隣のクラスの、特別な男の子が来た。  私は緊張のあまり俯く。  名は燐。燐君は私の二段手前に座った。 「朝早くに呼び出したな」 「いいよ。私いつもこの時間には着いているから」 「うん。本題だけど、俺と別れてほしい」  燐君のことは一目惚れだった。  入学して春の内に好きになって、冬にかけてアプローチをし、高校二年の春にようやく実った。それから九回ほどデートをしたが、一度手を繋いだくらいだ。  二日ほど前に、本命の、好きな人が振り向いてくれたらしい。ずっとキープされていたとも気づかず、本命を知ったのも昨日のメールのやり取りだった。 「分かった」  胸の奥がずきりと痛んで、出血でもしたように痛みが広がっていく。  バランスを取る自信がないまま立ち上がって、階段を下って燐君の背中を追い越す。  メールを受け取って覚悟を決めていなければきっと。  足が震えそうになる。  どんな言葉も漏らさないように必死に下唇を噛む。 「じゃあね」  私は教室に戻った。  騒がしくなる教室、私は英語の単語帳を眺める。  クラスでよく私と話す友人は遅刻魔だから、今日もぎりぎり間に合うか否かの時間に来るはずだ。  そう思っていた。 「ねえ、帆乃花。さっきの男の子、誰? もしかして告白の場面だった?」  と、うきうきでやって来た。  今日だけは早かった。 「あ、ごめん。ごめん、そういうのじゃなくて。そういうのじゃないから」  私を抱き締めて、ハンカチを私の頬に当てる。  重いな、と思いながらぼうっとしていると、ハンカチにシミができていて。  自分が泣いていることに気づいた。  こういうのは良くないのに。  終業式が終わって通知表をもらう。  課題を配り終えて担任の先生の話が終われば、夏休みが始まったということだ。  そわそわしてチャイムを待つ。  鳴れば一斉に教室を飛び出す。  私は人混みの荒波を避けたくて、教室から雨を眺める。  それから下駄箱へ向かったのだが。 「おいおい、嘘つくなよ。朝から降っていたから」 「あ、ばれた? 今日は折り畳み傘で来たから忘れたって隠して相合傘でもしようとしたのに!」 「なら入るか」 「絶対馬鹿な二人だと思われるよ」  燐君とその本命の人に出会う。  燐君は私の顔を一瞬見るが、すぐにイチャイチャに戻った。  もう少し時間をずらせば良かった。 「まだ付き合っていないなんて」    メールではそう書かれていた。  付き合う期間までの両想いの時間が一番楽しいという人もいるそうだ。  その延長戦を続けるために曖昧な関係を続けているだけで、恋人とほとんど変わらない。 「私はまだ納得できていないのに」  弱みを漏らしたところで仕方ない。  水溜まりを避ける余裕もなく、虚ろなまま家に着く。  スカートもスニーカー靴も泥だらけだ。  夏休み、暇になってしまった。  その後、夏休みの翌日、私は部活をやめることを顧問に伝えた。  もう何もしたくなかった。  顧問は戸惑っていたが、一週間部活への参加を拒否し続けると納得してくれたらしい。  燐君が男子卓球部、私が女子卓球部で合同練習も少なくない。顔合わせたくないというのがやめた理由だが、顧問に対してはより高いレベルの大学を目指すためと伝えた。  母には本当のことを話した。  理解者だったことが救いになっていたのだが。  ある日の昼、母が冷凍うどんを茹でている。私はリビングで好きな動画投稿者の動画を見ていた。  イヤホンをしていると、母がどんぶりと小皿に乗せた擦り生姜、刻みねぎを持ってくる。  母が向かいに座る。  私はイヤホンを取ってテーブルに置いた。 「二軒隣の子、中学三年生で今年受験生なの。夏休みだけでも勉強教えてあげて。家庭教師、お金ももらえるから」 「いいけど」 「仲良かったものね。でも今の話はなかったことでいいわ。その、まだ大丈夫ではないと思うから」 「お母さん、私やってみる」  母は固まる。  当然断ると思っていたらしい。 「え? 本当? いいのかしら? なら明日、体験に行ってくれる?」 「分かった」 「どちらにせよ、明日のもお金もらえるから」  母と二軒隣の人は昔からここに住んでいて仲も良かったらしい。  今も時々会っていて、教え子と私もそれなりに仲が良かった。  前に会ったのは去年の冬休みだったため、燐君と付き合う前だ。  そっか。家庭教師か。  暇で燐君のことばかり考えて心を何度も折るよりかはきっとましなはずだ。
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