逆撫で

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 血痕が地面に残っているので、この場所で間違いない。  その死体がないということは――あの男は完全に死んでいた――、何者かが持ち去ったということだ。  おれ以外の登山者だろうか? しかし、誰もともすれ違わなかったが。  あの死体を担いで下山したのだろうか?  あるいは、もっと悪い想像もできてしまう。  野生動物、それも熊の可能性だ。  冗談じゃない。おれは足を速めた。  そのせいで転んだらしゃれにならないので、足元には最大限の注意を払う。  やがて、ふもとの町が見えたときは心からほっとした。  民宿に入り、おかみさんにお茶を出してもらう。 「へえ、お客さん、もう頂上まで行って帰ってきたんかね」 「まあね。それなりに鍛えてるもんだから」 「そりゃあ大したもんだねえ。この山は足場が悪くて、滑って転んで頭打つやつが昔からたあくさんいるから、急ぐと危ないんだよ」  今日も一人見かけましたよ、と言いそうになってあわてて口をつぐむ。他言は無用だ。 「そういやお客さん、もしこの山で行き倒れとか見つけても、くれぐれも『逆撫で』をしちゃあいけないよ。といっても、わざわざ死んだ人にそんなことする人はいないだろうけどさ」 「サカナデ?」  首をかしげながら訊いてみる。 「坂道で下に頭向けて死んでる人間を、ぐるっと回して頭を坂の上に向けることだよ。この辺じゃあね、山の中で死にそうになった時は、頭を下側にしてうつぶせで死ぬもんなんだ。つまり、魂だけでも山を下りて家に帰ろうとするんだね」 「……はあ」  おれは、寒気を覚えつつ、お茶をすする。 「これを上に向けちゃうと、また山登っちゃうだろ? 魂が人里に戻って来られなくなるんよ。それが『逆撫で』で、とっても悪意的でたちの悪い行いなのよ。仰向けにすればまだいいんだけど、うつ伏せで頭を上側にされると、『逆撫で』されたことを恨みに思って、前を行く登山者に後ろから覆いかぶさって取り憑いちゃう死人もいるっていうからね。死人はもう、そうして山を下りるしかないもんだから」 「……ははあ。そういうのって、山を下りれば離れてくれるんですかね?」  おかみさんはけらけらと笑う。 「いやあ、『逆撫で』して恨みを買っちゃってるとそうはいかないだろうねえ。離れちゃくんないでしょ」  肩は、あの死体に背を向けて歩き出した時から相変わらず、ずっしりと重かった。  まるで後ろから、誰かにつかまられ続けているかのようだった。 終
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