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優しげでいて否定を許さない声音に、ナツはそっと頷く。わかっている。誰に教えられなくとも、きっと昔からわかっていた。お山はナツの一部で、ナツもまたお山の一部だった。目の前にいるのは、山のすべてを統べる主だった。
「いつでもわたしを呼ぶことができるのに、笛で鴉を招いてばかりいるから、もどかしく思っていたよ」
それはもう無用のものだ。そう告げながら山の主が手を振ると、ナツの懐でコツリと音を立てて殯の笛が割れた。
「里も今夜は宴のようだ」
麓の篝火はろうそくの灯りのようにゆらめき、喧騒は斎の野辺には届かない。現世と幽世のように遠く隔たっていた。
「せっかくの嬥歌の夜ならば、人の子らの真似事をしようか」
――妻問いを
斎の野辺を囲む木々の間を、さやさやと風が渡った。主の長い指がナツの髪を撫で、頬を滑り、おとがいを持ち上げる。その眼差しにとらわれて、ナツはもう目を逸らすこともかなわない。
「そなたの真名を、わたしに」
「あたしの、名は――」
夏茜。
名乗りを聞き、主は三日月のように目を細めて笑った。
「ではお返しにわたしの名を与えよう」
主はナツの耳もとに顔を寄せ、「火雷」と囁いた――瞬間、強い風がざあっと吹いた。
ナツは辺りの色が音が匂いが、濃密に押しよせるのを感じた。夜露に湿る土の匂い。風が起こす葉擦れの音。虫の声。生きとし生けるものの気配。まるで覆いを取り去ったように、お山の息吹が身に迫る。お山はナツで、ナツはお山だった。もはや分かつことのできぬものだった。
ナツが吐息をこぼせば、主の腕がふわりとナツを囲んだ。繋いだ糸を辿るように喜びの念がナツに流れ込み、幸福感に酔わせた――そのとき、ぴりりと不穏な気配が肌を刺した。
「…………ナツ、どこだ、ナツ!」
三郎太の声を、風が運んできたのだった。
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