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「無粋なことだ」
うっそりとした主の呟きにナツは震えた。
「主様、雷をよばないで。三郎太は、あたしの真名を知らない。だから、真名を呼んだりしない……」
――太一のように。
あの日。太一は麓の田んぼにいたナツと三郎太に向かって、山の端から手を振った。
何か言っている声は風に流されてよく聞こえない。首を傾げるナツに、もう一度大声で「……………!」と叫ぶが、最初の『ナツ』しか聞き取れなかった。諦めて笑顔でもう一度手を振った姿が、太一を見た最期だった。
――夏茜!
太一はあの時きっとそう叫び、主の怒りに触れた。太一の生命を奪った落雷は、主が下ろした鉄槌だったのだと、ナツは確信していた。
「今日、人の子は祈り、供物を捧げ、小鳥もわたしの元に飛んできた」
そう言って主は笑んだ。とてもうつくしくおそろしい笑みだった。
「わたしは今とても気分がいい。だから返礼をしよう。わたしと人の子の、新たな縁となるように」
頭上に輝いていた月を叢雲が覆う。訪れた闇に主とナツの身体がその輪郭を溶かし、やがてばさり、と羽音がふたつ、響いた。
「……………ナツ!」
斎の野辺に三郎太がたどり着いたとき、そこに人影はなかった。静まり返った野辺を見渡して、三郎太はまっすぐ一点に歩み寄る。染めていない生成りの衣と帯が、抜け殻のようにそこに落ちていた。
「ナツ……?」
それらを身に纏っていたはずの娘の姿は、どこにもない。そっと衣を持ち上げると、その下には二つの素焼きの笛。灰白のひとつは真っ二つに割れ、その代わりのようにもうひとつ、夕焼け空をうつしたような淡い朱の笛があった。
新しい殯の笛を、三郎太は震える手で拾い上げた。きっと、ナツはもう里に帰らない。
――里に赤とんぼが来たなら、あたしのことを思い出して
ぽつりと地面に三郎太の涙が落ちた。
終
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