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1 私を信じて
「待って、ランドルフ! 私の話を聞いてちょうだい」
私、ジュリアは、私たちの夫婦の部屋を出ていく夫、ランドルフを追いかけて行く。
こちらを見ようともしないランドルフの大きな歩幅に、私は追いつけない。ランドルフは目の前にある全ての障害物をなぎ倒し、壊していった。
高価な花瓶や食器は見るも無惨な姿で床に散らばり、カーテンも引きちぎられ、彼が通る後は猛獣が通ったかのような惨状になってしまった。
「アガトンの話は嘘よ! 私は彼と……あなたの弟と不貞なんかしていないわ。私が愛しているのはあなただけよ。体を許したのもあなただけ」
「嘘をつくなジュリア!」
ランドルフは私の言葉を真正面から嘘だと決めつける。
――なぜ信じてくれないの。
「嘘なんかじゃないわ、私を信じてランドルフ……」
どれだけ私が懇願しようとも、ランドルフは私の言葉を信じようとはしない。
「この阿婆擦れが! 夫である俺をどれほどこけにしたか、わかっているのか?!」
信じるどころか、屋敷中に聞こえる大声で罵って私を貶める。
彼の弟、アガトンから何と聞いたのかはわからない。だけど、ランドルフは彼の弟の言い分の方を信じてしまっていた。
見たこともないほど荒れ狂うランドルフ。私は、そんな彼を目の当たりにして体が震え上がった。涙が滲み出てきたが寸前のところで堪えた。
「お願い、……私の話を聞いて……」
どうして私の話を聞いてくれないの。私の声に耳を傾けてもくれない。どうしたらいいのか、途方に暮れてしまった。
声を出して泣き出してしまいそうになるが、そんなことしたってこの状況が良くなるはずはない。むしろ、彼の怒りはさらに増してしまうと私にはわかっていた。
ランドルフはこの大きなお屋敷の主人、プロミネンス伯爵当主であり、傲慢と言われるほどプライドの高い貴族で有名だった。
そして、傲慢な態度は私と結婚した後も変わらなかった。屋敷の者たちに対してランドルフは尊大な対応で、少しでも気に入らないことがあれば怒鳴り散らしていた。
けれど、妻であり愛すべき伴侶である私に対してだけは、優しく強い夫であった。この時までは。
ランドルフは、廊下に飾っていた思い出の絵画を、乱暴に壁から取り払った。新婚旅行先で2人で買った物だ。素手で額縁をへし折り、隣に鎮座している甲冑が持っていた剣で絵をズタズタに引き裂いていった。
最後に、ズタボロになったその絵画のなれはてを、硬い革靴の底でぐりぐりと踏みにじった。
私の心も、絵画のように切り刻まれて、ランドルフのぶ厚く重たい靴底に、無惨に踏みにじられたような気持ちになった。
それでも私はランドルフに訴え続けた。なぜなら彼を心の底から愛しているから。
アガトンと私が不倫関係にあっただなんて、真っ赤な嘘だ。ランドルフと結婚する前だって、付き合った人などいないし、恋をしたのも彼だけだ。
彼だけを愛している。出会った瞬間から、燃え上がる私の心はあなにだけを向いている。これからもきっとそれは変わらない。なのにあなたは信じてくれない。
「ランドルフ、私にはあなただけ……。信じて下さい……。アガトンの言ったことは全て嘘だわ。彼はあなたの弟なのよ?そのアガトンと私がそんな……」
「黙れ!! 次に他の男の名前がお前の口から出て見ろ……どうなるか見せてやる!」
「きゃあ!」
ガシャーン!
ランドルフは窓ガラスを拳で叩き割った。物すごい音だ。ガラスの割れる音が廊下に響く。
真夜中の今、外は嵐が吹き荒れ冷たい暴風と雨が割れた窓ガラスの隙間から吹き込む。体の芯から冷え込んでくるようだった。
時折、ビシャーン!と荒れ狂った闇の中で雷がランドルフの背後で光る。
ランドルフの拳は血だらけになっていた。ガラスの破片が突き刺さっている。
その惨状を目の当たりにして、自分の顔から血の気がサッと引いていくのがわかった。
怒り狂った夫には、私の小さな声は届かない。誤解を解きたくとも、聞いてはくれない。ならばせめて傷の手当てだけでもして欲しい。
「ランドルフ、手当を……」
「俺に触れるな!」
傷のある手に触れようと彼に手を伸ばした。しかし、触れる前にランドルフはその屈強な腕を振り上げで歩き出す。
「待ってランドルフ、お願い、お願いだから」
縋るような声を出したが、無視された。これ以上私の声も存在も感じたくないと言うように、ランドルフは全てを振り切る様に階段を登って行った。
「俺の目を盗んで、弟と不貞を働くなんてとんでもない女と結婚してしまった。俺の弟だぞ! 虫唾が走る。そんなにあいつがいいのなら、あいつの所でもどこへでも行ってしまえ!」
階段を登りきった一番上から大声を出して私を怒鳴りつける。怒りに満ち溢れた表情で、ランドルフの目は妻を見るものではなかった。
「ちがう……ランドルフ、違うのよ」
「お前の、そのお腹の子も俺の子じゃないんだろう」
地獄の底から聞こえてくる様な声。私は震え上がった。ランドルフのその地を這うような声に反応しただけでなく、そのおぞましい誤解に対して、心臓をぎゅっと握りつぶされたような感覚があった。
私は大きくなってきたお腹を手で思わず支えた。私は妊娠中期にさしかかっていたところだった。
「そんな……この子はあなたと私の子よ」
「ふん、そんなことを言われても信じられるものか」
「だったら、どうしたら信じてくれるの」
「堕ろせ」
「…………え?」
「まだ俺の妻でいたいのなら、堕ろせ。子どもはまた出来る」
「そ、そんな……ひどい……。そんなこと、できるわけがないでしょう?!」
「出来ないのであればもういい。お前は俺の妻ではない。さっさとこの家から出ていけ!」
ランドルフは身を翻し行ってしまう。
「待ってちょうだい、ランドルフ!」
私は彼を追いかけた。
焦って上りすぎたせいか急にくらり、とめまいがした。その瞬間、足がもつれて上っていた階段を踏み外す。
あっ、と思った時にはもう遅かった。
体勢を整えようとしてももつれる足。
何かに掴まろうと空虚を掴む自分の手。
慣れないお腹の重みで落ちていく。
「き、きゃあああぁっ!」
階段の上段から、私は身重の体で階段の一番下まで転げ落ちた。
その音と私のの悲鳴を聞きつけて、ランドルフはすぐに戻ってきた。
「っジュリア!」
「……っ、お腹が……私の、赤ちゃん…………」
かろうじてお腹を両手で庇っていた。そのせいで、転げ落ちていく最中に体のいたるところを打ちつけて、全身が痛む。だがそれよりもお腹の赤ちゃんが心配だった。
私自身の体が強張りすぎて、お腹が張っているのかもわからない。胎動も感じ取ることができなかった。
「誰か! 誰かいないのか!」
ランドルフが、屋敷の端まで聞こえるくらいの怒号で使用人を呼んだ。
すぐに、侍女長のクリスティーナが駆けつけた。クリスティーナはランドルフが生まれる前から伯爵家に仕えており、ランドルフの信頼も厚い。そのため私も彼女を信頼していた。
「なんてこと! 奥様……旦那様一体なにがあったんです?!」
クリスティーナの焦った声に、自分がどれだけ危険な状況にいるかを自覚していった。
「ジュリアが階段から落ちた。医者を呼べ! 早くしろ!!」
「はい、すぐに呼んでまいります……!」
身を翻してクリスティーナが医者を呼びに向かった。
「ジュリア、すぐに医者が来る……。大丈夫だ」
ランドルフはそっと私の上半身を抱き上げた。鍛え上げられた体に包まれて、いつもだったらその大きな体に身を寄せて安心しきっていたはずだった。
それなのに私の体は冷え切っていて、ガタガタと震え始めた。いくらランドルフに抱きしめられても不安は拭いきれなかった。
かえって不安に押しつぶされていく。
――私の赤ちゃん、どうか無事でいて……
どんどん瞼は重たくなる。
漆黒の真夜中に、私は意識を手放してしまった。
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