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信乃は走っていた。慣れた人の姿ではなく、狐の姿で。
浩一郎の話を思い出す。
知って良かった、と思う。同時に、知らなければ良かった、とも思う。
すべては母の遺産だった。
なぜ母が人里に住むことに拘っていたのか、ここに来て漸くわかった。彼女はずっと見守っていたのだ、自身が起こしてしまったことの行く末を。
それでいながら、信乃が悠太郎と共にいることを、母は止めようとしなかった。その結末をその身で知っていながら、母は止めようとしなかった。それが信乃には、わからなかった。
気付けば村を離れ、母の死を認めた道路まで来ていた。あの日、なぜ母がこんなところで死んでいたのか、結局わからないままだ。人間に殺されたのかもしれない。もしくは、別の何かが原因なのかもしれない。どちらにせよ、ここで死んだ母は、浩一郎の手で解体された。あのとき、あれほどまでに滾った憎悪が、すっかり消えてしまったのは信乃自身でも不思議であった。
そこに立ち止まっていたのはほんの数秒のこと、信乃は再び走り出す。
もう、あの村に戻ることはない。母と過ごしたあの家に戻ることはない。いずれ、あの家は朽果て、何もなかったことになるだろう。信乃のことを覚えているのは、きっと浩一郎で最後になるはずだ。その浩一郎もいずれ死ぬ。
そこに未練は残っていなかった。
妖狐とは、本来個体で生きるものだ。百年経たずに親元を離れるのが普通である。信乃は例外的な存在だ。それもまた、悠太郎の先祖が残したものだったのだろう。本来は社会など作らない妖狐に、社会を作る人間の血が混じったならそれも自然なこと。
本来、同じ時間を生きられない存在同士が共にあろうとすれば、そこに歪みが生まれるのは道理。石倉家は本来持つ寿命を涸らし、信乃の母は本来持つ自由を奪われた。
それでも。
村から大分離れたところで、信乃は漸く足を止めた。開拓が進んだ土地は、ほとんどが人間のものになっている。悠太郎と行ったキッサテンというものも、ここに来るまでにたくさん見た。
それでも、出会えたのは奇蹟だったのだろう。
信乃はそう思う。そう思った。信乃の母と石倉家の先祖が出会ったことも、信乃と悠太郎が出会ったことも、それは奇蹟だったのだ。その奇蹟に感謝し――そして別れるべきなのだ。
空を見上げる。晴天の空が赤らんできている。そろそろ寝床を探さねばなるまい。帰る家はもうないのだから。帰りを待つ人はもういないのだから。
今、自分はひとりなのだから。
信乃は体を起こす。もうひと踏ん張り走らねばなるまい。
二又の真白い尻尾が、夕陽を浴びて赤銅色に棚引いた。
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