最大公約数

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 朝食を済ませた信乃は、狐の姿で外に出る。今日は彼の四十九日という日らしいのだが、あいにくと信乃は法要に参列できない。呼ばれていないのはもちろんだが、もとより嫌われている家の女、彼の家族からの評も頗る悪い。  茂みに身を隠しながら目的地へ向かう。法要に参列できなくとも、情報くらいは信乃の耳にも入る。法要が終わったら納骨が行われるということも、その納骨を行う場所も、信乃は事前に知っていた。人の姿で行くのはさすがに気が引けるので、狐の姿でこっそり見守ることを決めていた。幸い、墓地というものは隠れる場所がとても多い。  目的地に着く。まだ誰もいない。静かな空間に信乃は早く来すぎたかと、小さく息をついて足を休める。茂みの影で体を丸くし、けれど彼が来たらすぐに反応できるように、耳だけは立てておく。  人の耳よりも鋭敏な聴覚は様々な音を拾う。遠くで読経の声が聞こえる。説法も読経も、それだけで別に妖狐になにがしかの効果があるわけではない。これが終わったら、彼はここに来るのだろうか。それとも、間に別の何か儀式を挟むのだろうか。さすがにそこまで細かい行程までは、信乃も把握していない。  目を閉じる。  葬式の日を思い出す。  彼が死んで、葬儀が行われたときも、信乃は当然のように呼ばれなかったし、参列もしなかった。本心ではそんな自分の待遇に腹立たしさも悔しさもあったけれど、一方で自分より遥かに寿命の短い人間の死にいちいち関与もしていられない、という冷めた諦観もあった。  けれど、それでも、最後に一度だけ彼の顔を見たいと、狐の姿でこっそり忍び込んだのだ。生前、最後に見た彼の姿は、血を吐きながら苦しそうに悶える姿であった。そのあとを、信乃は知らない。この村の医者では治せないと、この地から遠く離れた病院という場所に運ばれた彼を追う術を、信乃は持っていなかった。彼が戻ってきたときは既に亡くなったあとで、その日の晩にも告別式が行われると知り、信乃は彼を見に行った。人間は死んだら焼かれることを、信乃は知識として持っている。だから、焼かれてしまう前に会いに行った。  みなが寝静まった夜更け、棺の中で眠る彼の顔は、今にも目を覚ましそうなほど穏やかな顔をしていた。  ほんの一瞬。少しだけ見たら帰ろうと決めていた信乃の心は、それで揺らいでしまった。  触れてみたいという心が、狐の姿から人の姿に転じさせ、もう少し、もう少しだけと棺に寄り添ううちに、時間を忘れてしまっていた。彼の前では完璧な人型でいた癖で、耳も人間のものにしてしまっていたから、遠くの音も聞こえなくなっていた。「誰だ」という声に肩を跳ね上げたことは、今でも覚えている。 「あ……」  咄嗟のことに声も出ない信乃に、声を上げた来訪者は「ああ」と納得したように溜め息をついた。それから、電気も点けずに信乃に近づく。そんな相手に、信乃は慌てて今の自分の姿を意識した。耳は人のものになっている、尻尾も出ていない、きちんと人間になれているはず。  一歩、二歩、三歩と近づいてきて、相手が彼の兄であることに信乃は気づいた。あまり話したことのない、寡黙な人の印象があった。  さて、どう誤魔化そう。母にはきつく叱られていたけれど、誤魔化すのは妖狐の得意芸だ。  しかし、そんな信乃の考えを先読みしたかのように「変なことはするなよ」と釘を刺された。そのまま、相手は信乃の横で腰を屈めて、自身の弟の顔を見る。その横顔は、改めて見ると確かに彼に似ていた。 「母さんたちは朝まで起きないだろうさ」  その横顔に告げられた言葉に、信乃は「え?」と聞き返す。それに、相手は信乃を振り返った。目の色が少しだけ黄色を含んでいる。変わった目の色だと信乃は思った。 「あんたはユウタロウの彼女なんだろう。なら、もっと堂々とここにいてもいいはずなんだ」 「私は、嫌われていますから」  信乃の冷めた言葉に、相手は何も返さず顔を逸らした。その態度は、しかし信乃を追い出そうという意思はなかった。彼もそうだが、その兄もまた変な人だと信乃は思いながら、しかし、追い出さないのであればそれは好都合と、もうしばらく彼の姿を見ることにしたのだ。  そうしてやがて朝が近づき、おそらく他の家族が起き出す前に、相手は信乃を外に促してくれた。信乃がいたことを家族に言うのではと、狐の姿に戻ってしばらく信乃は様子を見ていたが、そんな気配は微塵もなかった。  彼の兄のことはよく知らないが、信乃が最後に彼の顔を見る機会をくれたことには、感謝している。最後に見た顔が、生前の苦しそうなものであったなら、信乃はそれを引きずっていただろう。  けれど、そうではなかった。彼の死に顔はとても穏やかなものであった。  先に迎えた母の死とは違うものに、信乃は心の底からほっとしたのだ。  だから今、こうして彼と文字通りの最後を迎える心構えもできた。  読経の声が止む。信乃は目を開けた。
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