1 推しが死んだ日

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1 推しが死んだ日

 推しが死んだ。  推しが死んだ。推しが死んだ。推しが死んだ。  私は目が滑るそのページを何度も繰り返し読んだ。何度見ても推しが死ぬ場面が描かれている。無意識に息を呑んだまま呼吸が止まっていたようで、だから苦しいのかと気づいた。意識して呼吸をする。どうやって息をしていたか忘れて少し咽せた。何度呼吸をしても、苦しいのは変わらない。  毎月の楽しみだった月刊誌のオンライン配信を読んで通勤していた満員電車の中。漫画クイーンズエッグは私の生き甲斐と化している。更新があると思ったからこの前までの残業残業に次ぐ残業の激務も耐えられたのに。それがまさか、朝からこんな大ダメージを公式に食らわされるとは。  どうやって会社まで行ったかも覚えていない。会う人会う人、皆一様にぎょっとした顔で私に具合が悪いのかと聞いてきたのは覚えている。何と返したのか。大切な人が死んだ、と言ったかもしれない。相手とは次元が違うけど事実だ。  小林、と声をかけてきた上司にも同じように答えたのか、今日は帰るように言われた。激務も落ち着いて有給を取っても問題ない。取得率も悪いから数日休むと良いと。私はぺこりとお辞儀をしてふらふらと家路を辿る。  世界はぐにゃぐにゃと歪んでいた。けれどきっと歪んでいるのは私だ。ずびずびに止めどなく流れる涙のせいだ。世界はきっといつも通りなのに、私にとっての世界は色を喪いそして残酷だ。推しのいなくなった世界に何の希望も持てない。  私は自分の部屋に戻って真っ先に片隅へ視線を向ける。推しのグッズで作った祭壇が私を出迎え、アクリルスタンドが朝見た時と同じ顔で私を見つめていた。変わらず顔が良くて輝いているように見えても、推しは死んだのだ。この先の物語に推しが出てくるとしたらそれは精々が、誰かの回想の中だ。 「嘘、嘘だよ……エリオットが死ぬなんてそんなの……」  私は本棚に手を伸ばし、漫画の第一巻を取った。推しの生きている姿を摂取 しないと推しが生きていたことさえ分からなくなってしまいそうだった。初期の推しは利己的で、絵がまだ幼くて、私はしゃくりあげる。あぁまだ、生きてる。それでも私はこの漫画を買うのをやめるだろう。推しがいない世界がその後どうなったかなんて、もう、関心も持てない。もうその世界に推しは生きていないのだから。  死はいつだって唐突だ。特別な死だと思いたいのは残される側の方で、死に意味はない。全ての命あるものに訪れ、誰もが等しく迎えるものだ。それは物語においても特別ではなく、意味はなく、そして唐突だ。感慨もなく、きっと物語は進むのだろう。例えばもし私が死んでも、世界が回り続けるように。この物語の世界も、回り続けるのだ。推しがいなくなっても。  だけどそんなの、あんまりじゃないか。 「何も、殺さなくても……良いのに……!」  それだ、と思った。驚きやショックを通り過ぎて私が感じたもの。何も殺さなくたって良いじゃないか。現実に意味のある死などない、特別な死などない。そうは思っても、推しの死に意味があると、物語なのだからせめて必要な死であったのだと、私は思いたかったのだ。  でも、原作(かみ)がそんなものはないと言うのなら。 「……よし、書くか」  二次創作なんてしたこともない。クイーンズエッグはつくづく、私にオタクライフ初めての衝動をもたらす作品だと思う。  推しの死を受け入れることができない私は誰にも迷惑をかけない範囲で、何より私が納得できるように、物語を紡ぐことにした。  好きな二次創作作家は言っていた。二次創作作家なんて皆、自分が公式を見て得た感想とか見た幻覚を他の誰にでも見える形にしてるだけ。私にはこう見えました、私はこう感じました、私はこうだったら良いなって思いました。そういうものの集合体だと。  そう、私もそれに倣い、物語はただ、文字情報として私だけが見える場所に在るはずだったのだ。 「──まさかその中に自分が入り込むとは思わないじゃん」  だって、信じようもない。ふと気がついたら自分が書いた小説の中にいる、だなんて。 * * *  漫画、クイーンズエッグは、私に人生初の情熱をもたらした作品だ。  英国を意識し、モデル舞台としたその漫画は主人公のヒロインがひょんなことから次期女王候補と判明し、四人のイケメンを相手に恋をするストーリーが主軸だ。裏切り、陰謀、そういったものからヒロインを守る誰と最終的な恋に落ちるのか、先をハラハラして読んで追っていた。アニメ化もし、豪華な声優陣に話題沸騰、原作コミックの売り上げも伸び、コミックスの発売を待てないとその漫画を目当てに月刊誌を買う人も出たくらいだ。何を隠そう私もそのひとりである。  ベタと言えばベタだし、王道といえば王道なのだけど、王道には多くの人を魅了する力がある。私はその中に出てくるひとり、エリオット・フォーブズを真剣に推すオタクと化した。元々がオタク気質で作品ごとに推しはいる。でもグッズで祭壇を作ったり飾ったり、此処までお金も時間も注ぎ込んだ推しは初めてだ。  主人公のヒロインは可愛く、誰もが彼女を好きになる。最近のストーリー展開から私の推しとは結ばれないのだろうと薄々は思っていた。推しの恋心が報われなくても良かった。彼はヒロインが幸せならそれを祝福できる人だ。  暗がりに生きる推しはヒロインを助けるために日向へ出て行くようになる。私はその変わっていく姿が好きだった。最初は周囲に関心を持たず利己的に振る舞う彼が、ヒロインと関わることで態度を軟化させ、柔らかく笑うことまでできるようになった。自分の人生を犠牲にされ続けてきた彼がやっとこれから、自分の人生を生きることができるようになる。そう思った矢先の出来事だった。  推しは処刑された。ヒロインを守る騎士に、その刃で体を貫かれて。ヒロインへの愛も口にできないまま、心の中で愛していたと呟いたのを最後に。  恋が実らなくても良い。ただ、生きていてほしかった。生きてさえいればいつか一緒に生きていきたいと思う相手は現れるだろうし、領主である彼を慕う領民も大勢いた。彼らの生活を守って行くんだと言っていたのに、推しが死んだら彼らはどうすれば良いのか。彼にはどうしようもなかったこととはいえ、推しに嘘つきになってほしくなかった。  道を踏み外したことに、彼は気づいている様子だった。それでも彼女が助かるならとそのまま進んだ。彼の性格的に有り得たし、周りに彼を止める人もいなかった。彼がひとりを好んだこと、歩んできた人生から周りに誰も置きたがらなかったことが結果的に秘密にした様相を呈しその計画が明るみに出た時には裏切り者扱いされ、けれど誤解を積極的には解かなかった。  原作に推しを救ってくれる人はいなかった。それなら其処には送り込まなければならない。  推しを救うために私があの世界に送り込む分身。私はこの世界にしかいなくて、推しのいる紙とインクで構成された世界には行けない。でも空想なら、その垣根を越えられる。無理矢理にでも私の分身を送り込んで、世界の主導権を私が持てば、私の世界線でなら推しを、救える。  神である原作の筋書きを書き換えるのは気が引ける。でも原作にいない私の分身が送り込まれて暴れたなら、全く同じストーリーは辿らない。何故なら分身のいる世界を創造したのは、私だからだ。  そう思って紡いだ世界が、目の前に広がっていた。
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