11 パブ・アネモネの日

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11 パブ・アネモネの日

 夜は冷え込むようになった。私は毒を摂ったあの日から三日経った夜、料理長に約束通りパブに連れて来てもらっていた。アイリスは羨ましがったがミリーに止められてむくれていた。  私は初日に着ていたワンピースに袖を通し、料理長の後を歩く。料理長は私の格好を見ると自分のコートを貸してくれた。流石に帽子とマフラーまでは貸せないと言われたけれど、私は驚いてコートも一度は断った。 「夜は冷えるぞ。パブについて一杯飲めば温まるかもしれんが、それまでに風邪をひかせたら俺がミリーに叱られる。行きだけでも良いから羽織ってけ。給金がもらえたらコートの一着でも買え。冬は寒いぜ」  季節はこれから冬になろうという頃だ。料理長の言うことも一理あって私は頷く。でも下着を買うのに前払いで必要な分だけ急遽もらってしまったからコートやせめてショールを買うだけの余裕があるかも分からない。いざとなれば毛糸を買って編み方を教えてもらおうと私は思っていた。  フォーブズ邸の裏口を出てから料理長はあちこちを曲がって歩く。入り組んだ路地裏を通るせいで何処を歩いているのか分からない。買い出しにも出ない私はまだこの街を知らない。はぐれたら大変だと思って私は料理長にぴったりついて歩いた。 「此処だ。パブ・アネモネ。此処の店主が昔、うちで働いてたやつでな。小さい店だが料理を出してるんだ。俺が教えてやったから腕は良い。酒も旨い。話も聞き上手。きっとお前も気に入るぜ」  店主ひとりで切り盛りしているのか、あまり大きな店ではない。けれど常連だけが通うような、紹介性の秘密クラブのような雰囲気を感じる佇まいだ。一見すると普通の民家で言われなければ通り過ぎてしまっただろう。  料理長はパブの扉を押し開いた。木製の扉で、木目が美しい。ドアベルが鳴り、かけた看板がカタカタ揺れて音を立てた。本物のアネモネの花を一輪、看板に留めている。毎日変えているのだろうかとそれを眺めながら店に足を踏み入れて、私はぎょっとした。  一般的なパブの内装を私は知らない。でもきっとこれは奇抜だ、と目を白黒させる。カウンター席とボックス席とがいくつかあることや、カウンターの奥で店員と思しき人が立っているのも、その後ろに調理器具やお酒の瓶がずらりと並んでいるのもまだ分かる。けど、きっと、一般的なパブはこんなに花を飾らないだろう。花屋かと思うくらいに花瓶が並び、綺麗に咲き誇った色とりどりのアネモネが出迎えた。アネモネしかない、アネモネ専門店のようだ。 「いらっしゃい。あら、ジョージじゃない? また来たの、アナタ」  カウンターでこちらに背を向けていた店員が振り返る。私はその声と見た目に驚愕した。ランプの灯りで少し薄暗いけれど見間違えない。綺麗なお姉さんだ。でも声は、とんでもないイケボだ。高めだけれど艶のある、色気しかない声。 「俺に会いたかっただろ、スカーレット」 「良いのかしら、想い人がいるのにアタシにそんなこと言って。アタシだって人間なんだから、うっかり喋っちゃうかも」 「おいおい冗談でもキツいぜ」 「冗談よ。此処で見聞きしたことはアタシからは漏らさない。お客様にもお願いしてるわ。ね、アナタもお願いよ。初めまして、可愛らしいお嬢さん」  青い視線を向けられて私は目を見開いた。ジョージという名前だということも初めて知った料理長が戸口で突っ立ったままの私を振り返る。そんなとこにいないでこっちに来い、と言われて私はおずおずと花の間を抜けながらカウンターへ近づいた。 「初めまして、アタシはスカーレット。このパブ・アネモネでママをしてるわ。ジョージの紹介ということは、お仕事絡みかしら」  近づいてみると背の高い綺麗なお姉さんはもっともっと綺麗だった。肩幅が男性の骨格であることを示すけれど、ショールで上手に隠している。私はあまりの美しさに圧倒されて小さく頷くことしかできない。 「最近入った期待の新人なんだ。こいつ、美味そうに俺の作った料理食うんだぜ。今日はちょっとした慰労会ってところだな」 「へぇ、あの伯爵邸の。アタシもあのお屋敷で働かせてもらっていたことがあるの。でも自分のお店を持つのが夢でね、数年前に辞めたのよ。こうしてジョージが頻繁に会いに来てくれるから、あまり独立したという感じはしないけど」 「寂しいこと言うなよ。俺が来ても嬉しくないか?」 「嬉しいに決まってるじゃないの。世間の評判ほど悪い場所じゃないのよ、あそこ。アナタももう知ってるかもしれないけど」  スカーレットさんは私を見る。名前の通り赤いドレスの似合う、金の緩く波打つ髪を持つ人だ。近づけばランプの灯りでもその青い目が空みたいな綺麗な青であるのが分かる。緊張している私をリラックスさせようとしてくれているのか眼差しが優しい。それに少し勇気をもらって私は頷いた。 「はい、皆さん優しくしてくれます。三食ついて寝る場所も制服も支給。定時らしい定時があるわけじゃない住み込みだけど、時間外労働はそんなにあるわけじゃないし、良い職場だと思います」 「感想が独特ね」  スカーレットさんはころころと笑う。笑うとより一層美人だった。 「さて、こんな時間だけれど何か食べる? それとも食べてきた? 軽いもので良ければ出すわよ」 「たまには自分以外のやつが作ったもんが食いたくなるんだよな。俺、いつものやつで。エマ、お前も好きなもの頼め。今日は俺の奢りだ。お前、頑張ったからな」 「わぁ、良いんですか。でも何が良いか分からないから、スカーレットさんのオススメがあればそれをお願いします」 「今夜はジョージの財布だものね。今夜のオススメはとびっきり高級なものにしようかしら」 「おいおい勘弁してくれよ」  私たちは声をあげて笑う。緊張が解けてみれば料理長が言ったようにスカーレットさんは話しやすく、加えて料理上手だった。お酒も随分と進んだ。気づけば私は伯爵邸で掃除をするメイドとして働いていること、毒に耐性があることを話していた。先日その仕事を成し遂げたことも。今日はそれを労って料理長が飲みに連れてきてくれたことも。  当の料理長は程よくお酒が回って来ているようで、何故か私は労われるはずが料理長の恋バナを聞き労う側になっていた。 「何だってあいつはなびかないかねぇ。俺があいつを好きだって気づいてないのか? どう思う、エマ」 「え、私ですか。料理長がどなたをお好きなのか分からないですけど、何か好きだってアピールしてるんですか?」 「あいつの苦手なものは出さない」 「料理人らしい〜」  私は微笑ましさに笑った。聞けば料理長は一度結婚したけれど相手の不貞で離婚しているらしい。だから次の恋には臆病になっている。その気持ちを言葉にできないままもう五年が経とうとしていると聞いてあまりの一途さに私は飲んでいたお酒で咽せた。 「料理長その人のことめちゃくちゃ好きじゃないですか……しかも同じ職場なんですよね。相手の人気づいてないんですか? あぁでもその人の苦手なものは出さないくらいのアピールじゃ気づいてもらえなくても仕方ないかも」 「エマちゃん言うわね〜。アタシ、アナタのそういうところ好きになっちゃう」 「あわわわ、スカーレットさん近いです。綺麗な顔が近いです」 「二人でいちゃつくんじゃねぇ。俺の話を聞けよ」 「不毛な片思いなんて聞いてても楽しくないのよねぇ。もっと思い切ったアピールでもしなさいよ。例えばほら、こんな風に」 「あわわわ、スカーレットさんホントに綺麗な顔が近いです。あ、何だか良い匂い……」 「エマー、そいつ中身は男でそんな格好してるけど男も女もどっちも恋愛対象だからなー。そいつに惚れると泣くぜー」 「やーねぇ、アタシだって泣かせたいんじゃないのよ。何故だか向こうが勝手に泣くの」 「恋人泣かせ……」  酔っ払いの意味のない戯言が続く。私もお酒が回ってふわふわする頭で二人の掛け合いを見て聞いては笑った。スカーレットさんは二十七歳という話で、実際の私よりちょっぴり歳上だ。それなのにこのパブをひとりで切り盛りしてお客さんの相手をするのだから凄いと思う。料理長とは昔馴染みというのもあるのだろうけど、とても仲が良さそうだ。料理長は料理長で立場もあるから中々愚痴を言う相手もいなくて此処に通うのだろう。  そのうちに料理長はカウンターに頭を乗せてぐうぐう寝始めてしまった。帰り道の分からない私は仰天するけれど、そのうちお迎えが来るから大丈夫だとスカーレットさんは言った。 「今のうちにこのお店のこと話しておくわね、エマちゃん」  スカーレットさんの空みたいな青い目に見つめられて私は頷いたのだった。
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