12 自覚した日

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12 自覚した日

「このお店は常連様向け。悩める人がやってきて、此処でその思いを口にしていく。アタシはそれを美味しい料理と美味しいお酒でもてなして、綺麗な花で包んであげる。今日はたまたまアナタたちだけだけど、複数のお客様がいらっしゃる日もあるわ。おしゃべりはこのアネモネたちがある程度は遮ってくれるけど、会話の中身が聞こえてしまう時もあるでしょう。でも、此処で見聞きしたことは忘れて帰ってちょうだい。今日ジョージが話した内容も、これからいらっしゃるお客様の想いも。それが最終的にはアナタを守ることにもなる」  私は頷いた。つまりこのパブには守秘義務がある。店主だけではなく客にもそれを求める店だ。だからきっと秘密の話をするのにこのお店は重宝される。 「詮索をしない。此処で見聞きしたことを他所で吹聴しない。それが守れるなら、いつでも来てちょうだいね。お代はジョージにツケておくわ」  ぱちり、と妖艶なウインクをひとつ投げられて私はどぎまぎした。誰かの秘密を守ることは大切なことだし守秘義務について私も理解しているからしっかりと頷く。さながらこの店は秘密の花園だ。アネモネだけが知っている、秘密の花園。 「ちゃんとお給料をもらってから来ます。人のお金で飲むなんて、私の性分に合いません。あ、でもあの、お高いんでしょうか」  急に不安になった私がハッとして深刻な表情を浮かべるとスカーレットさんはまたころころと笑った。細められた目が妖艶で、綺麗で、私は目を瞬いた。推しの顔も本当に綺麗だけど、スカーレットさんの顔もとてつもなく好きだった。 「エマちゃんなら安くしておくわ。今後ぜひ常連様になってほしいもの。色んなお話、聞かせてちょうだいね。  アナタもジョージと同じで、恋をしてるでしょう?」 「こ、恋? 私が?」  推しならいるけど恋とは違う、と思う。過去にいた恋人は大学を卒業すると同時に別れてしまって以後、彼氏はいない。社畜時代に突入して恋愛をする暇もなかったし、転職後も推しを愛でるだけの生活で彼氏なんて作ろうと思ったこともなかった。それに。 「……自己中な私が誰かを好きになることなんてできやしないです。いつだって自分のことばかりの私が、誰かを大切にだなんてできませんよ」  酔いもあって普段なら絶対に言わないだろうことを、しかも初対面のスカーレットさんに言ってしまって私は誤魔化すように笑った。でもスカーレットさんは笑わずに私をじっと見る。真剣な青い目が少し居心地悪かった。 「自分を大切にできない人が誰かを大切にすることだってできやしないのよ。その点エマちゃんは自分を大切にするっていう第一段階をクリアしてるんでしょう? それなら後は、好きな人を大切にするだけ」  スカーレットさんは綺麗な顔で綺麗に微笑んだ。どう笑えば人の心を掴めるか分かっている人の笑い方だと思った。 「アナタ、アタシが今までに見てきた恋をする人たちと同じ顔、してるわ。大切なのね、その人のことが」 「あ……」  急に体温が上がったみたいに顔が熱くなった。恋、なのだろうか。それは分からないけど、彼を大切に思っているのは本当だ。この気持ちは何だろう。救われてほしいと願う気持ちは恋のようでも、母親の注ぐ愛のようでもある気がするし、そのどれとも違う気がする。恋は久しくしていないし、母親になったこともない。此処までハマり込んだジャンル自体が初めてで、これが何か分からない。 「大切、です。でもやっぱり私は自分が救かりたくて、その人を大切にしようとしているだけなんじゃないかって、思ってて」 「ふぅん?」  スカーレットさんは頬杖をついて話を聞こうとしてくれた。こんなこと話して良いのかな、と思いつつ、此処では守秘義務が守られるんだった、と思い直す。面談室に来た人たちも同じような気持ちだっただろうか、と思いながら私は口を開いた。 「私は汚い人間です。打算的で、狡くて、子どものまま大人になってしまったような、未熟な人間です。誰かを思いやることは美徳である、ということを知っているにすぎなくて、そうした方が良いだろうと思って行動を選べてしまうような人間です。それに気づかないふりをしたまま此処まで来て、表面上だけ愛想良くして嫌われないように振る舞って、自分のことだけ守って生きてきました」  それもすぐに見抜かれますけど、と私は困ったように笑う。 「伯爵邸の人たちは良い人ばかりです。エリオット様が快適に過ごせるようにって心を砕いてくれるし、私が調子を崩したらこうやって心配してくれる。毒に対して怖くは思うでしょうけど、だからといって嫌がったり仕事を押し付けたりしない。料理長みたいな人なら分かります。自然に誰かを好きになって、恋ができるのも。でも私は、自分のことしか考えてないから」  スカーレットさんの顔を見ていられなくなって私は視線を逸らす。 「誰かを好きになる資格なんて、ないんです。好きになったってそれはきっと、幸せになれるような好きではなくて、相手を傷つけるものだと思うから」  汚い自分を守る口実のように好きだと言われていたとしたら、私なら傷つくだろう。それは相手を好きになったのではなく、自分自身を好きで守ろうとしているだけに見えるからだ。私じゃなくて結局自分が好きなんじゃない、と思うだろう。もし同じことをしてしまったらと思うと怖い。別れた恋人を、私はちゃんと好きだっただろうか。もう随分と前で分からないけれど、愛されていないと思えば別れたくもなるだろう。 「エマちゃんは、正しい恋愛をしたいの?」  問われて私は視線をスカーレットさんへ戻した。穏やかに微笑んで、違ってたらごめんなさいね、そう聞こえたものだから、とスカーレットさんは言う。正しい恋愛、と私は口の中で繰り返した。 「好きになる資格って何かしら。誰かを幸せにする力があること? それならジョージもアタシも、その資格はないわねぇ。ジョージは前の奥さんを幸せにしてあげられなかったし、アタシは恋人たちを泣かせてきた。誰も幸せじゃないわ。それなのにアナタはジョージが恋愛をするのは自然で解ることだって、言ったわ」  私は頷く。恋愛が上手くいくかどうかは運だって関係するだろう。私が気にしているのはもっと前の段階の、資質の話だ。 「愛には色んな形があるのよ。それぞれ好き嫌いはあるでしょうけど、正しいかどうかなんてない。ある人には間違って見えても、お互いそれで幸せな恋人もいる。ある人には正しく見えても、苦しい思いをしている恋人もいる。  ねぇ、エマちゃん。恋って、当人がするものよ。周りから見てどうかなんて考える必要あるかしら。大事なのは、アナタと、相手がどうか、なのではなくて?」  私は弾かれたように目を真ん丸に見開いた。スカーレットさんは私の腑に落ちたのが判ったようににっこりと笑む。女神かと思うほどに綺麗な笑顔だった。 「お相手が嫌というならそれはきっと間違っていると言って良いわ。恋は二人でするものだもの。同意のない恋を片思いで続けるかどうかはアナタ次第だけど、アタシの目に見えるアナタは、自分のために大切にしているようには見えないのよ。だってアナタ、その人を理解しようとしているでしょう?」  私は息を呑む。一瞬口を開いたけれど、出すべき言葉が見つからなくてすぐに閉じた。 「自分のことだけ、と言うなら理解しようなんて思わないものよ。自分が救かりたい一心なら相手を見ることもしないでただ包み込んで隠してしまうんじゃないかと思うの。でもアナタはそれを良しとしない。理解しようとして、少しずつ知ろうとして、だから怖いのよね。自分と一緒にいて相手はどう思うんだろうかって。それ、恋と言わずに何て言うのかしら」 「で、でも、私、そうした方が良いって知ってるだけ、で。理解できるわけではなくて……」  言い訳のようだと言いながら気づいて言葉が尻すぼみになっていく。どうして言い訳めいて言い募らせているのだろう。 「知ってることと実行できることは、また違うことよ、エマちゃん。知っていても実行しないこともできるのに、アナタは実行しようと行動している。できるできないは確かに技術の話だからそれはまた別のことになってしまうけど、ひとつ言えるのはね、理解できたという結果に繋がる道は、理解しようとする行動にしかないってことよ」  アナタはもうその道に踏み出しているでしょう、と言われて私は限界を超えた。鼻がツンとして目からぼたぼたと涙が溢れ出す。自分の体に気持ちが追いつかずに慌てて顔を両手で覆う。みっともないくらい嗚咽が零れた。抑えようとして体が震える。  スカーレットさんは私の肩をさすってくれた。何も言わず、ゆっくりと。料理長は相変わらずぐうぐう寝こけていて私たちがこんな話をしていることなんて知らないんだろう。鼻をすすりながら私は胸の内で考える。  推しが、救われたいと思っているかは分からない。私が勝手に救われてほしいと思っているだけで、救われなかったのは私だけで、推しの中ではそんな感覚はないのかもしれない。でもそれを確かめることはできない。その事態になるのを指を咥えてただ待つなんてできないし、そうなった後に推しと話すこともできない。どう思ったかなんて確かめることはできない。だからこれは私のエゴだ。同意のない片思い。生きててほしいと私が願うから。  そしてこんなに生きててほしいと願ってしまう私は確かに、彼に、恋をしているのだろう。彼が好きだ。その好きには、単純に好意があるとか、贔屓目に見るとか以上の想いが含まれている。最初から解っていた。文字通り次元も違うし、けれど仕事を早退するほど大切な人なのだ。半身が引き千切られるような痛み。私、とっくに彼を好きだった。でもそれは報われなくて構わない。私はこの世界の住人ではないし、何よりこれは、夢なのだ。いずれ醒める、夢なのだから。  自覚した恋心がひどく痛む愛おしさに、私は涙を止められずにいた。
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