15 イラクサを試す日

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15 イラクサを試す日

 催淫剤。いわゆるえっちな気分にさせたり気持ち良くなるためのお薬、と私は認識している。世の中には非合法な危ないドラッグもあるが、今回は下手なものを渡せないと言っていたからなるべく体に害がないようなものを調合しようとしているのだろうことが窺えた。  私はと言えばそんなものとは無縁な生活を送ってきたせいか、それどころかそういう方面のことだってご無沙汰なせいかこれには免疫がなくて自分でも真っ赤になっているのが分かった。ランプの灯りで誤魔化せていますようにと願う。  実際の私も数回経験がある程度で、それだってもう五年は前のことだ。この分身に至っては全く経験がない。そういう歴史は持たせていない。そういう行為が気持ち良かったことはない。ただ唇を合わせて体をまさぐられて、耐えていただけ。その奥方の気持ちもよく解るというものだ。それもあって私は昔の恋人を好きだったと言える自信がないし、相手も好かれている自信が持てなかったのだろうとは思うけれど。 「こ、怖い、です。やりますけど、怖い」  私は素直に気持ちを吐き出した。やるかやらないかで言えばやるのだけど、自分がどうなるか分からないのは正直に言ってただ怖かった。前回のように苦しくなるとか分かっていれば予想もついて良いのだけど、全く未知の経験は怖い。  推しは何を今更、と言いたげな顔で私を見る。それでもやると言った私に薬包を渡し、グラスに水を注いだ。 「イラクサには細かな棘がある。すり潰しているからそれが刺さるようなことはないと思うけど、違和感があったら言って。対応を考えないと。体に変化があったらそれも教えて。きみには未知でも、現れる症状は細かく知っておく必要がある」  宥めるようなことを一切言わないのが推しらしいと思って私は内心で笑った。期待していたわけではない。自分を落ち着けるために素直な気持ちを外に出すのは有効だと知っているだけだ。結果として飲む事実は変わらないのだから、少しでも落ち着いた方が良いに決まっている。  私は何度か深呼吸すると顔を上げて薬包を傾けた。さらさらさら、と音を立てて粉末が口の中に入ってくる。苦い。すぐに水を受け取って飲み下す。喉に張り付いている気がして何度か、こくん、こくん、と分けて水を飲んだ。 「苦いし草の匂いが凄いです」 「奥方の味の好みを聞いておくべきか」  推しはまた紙にペンを走らせる。私からグラスを受け取るとまたデスクの椅子に腰掛けて、長い脚を組んだ。私をじっと見る。紫の目は私の変化を一瞬たりとも見逃さないように見張っているみたいだった。体には何の変調もなくて私は気まずさから口を開いた。 「イラクサだけの薬ですか?」 「いや。他にも色々混ぜてる」 「もっと混ぜると効果に影響が出ますか?」 「? 何故そんなことを?」  不思議そうに首を傾げられて、私は少し言い淀んでからあの、と錠剤にすることを提案した。 「今回のは特に棘があるという話ですし、薬の成分を壊さないもので包んでしまえば飲む時にも危なくないし、お腹の中で溶ける時間も調整できるかもしれません。味もそんなに気にしなくて良くなるかも」  へぇ、と推しは目を丸くした。初めて私に興味を持ったみたいに見てくる。私は更に気まずくなって推しから視線を逸らした。推しに見られることにオタクは慣れていない。画面越しならまだしも、こんなに近距離でなんて。 「面白いことを考えるね。そういう研究は確かに古くからあるんだ。粉よりも固形の方が飲みやすいに決まってる。即時吸収を目的とするなら粉末の方が遥かに良いんだけど、何処で吸収するかが重要なものもあるからな。吸収するより前に体に痛みを与えるなら薬としては意味がない」  毒としても同じことが言える、と私は思う。経口摂取させる毒なら一口で毒と見抜かれては吐き出されてしまうだろう。けれど体の中で溶ける毒なら飲み込んだ時には警戒されないで済む。時間差で効果が現れるなら自分が殺したとも思われにくい。 「きみ、思っていたより頭が回るね。興味が出てきた」 「え、あ、そうですか。それはどうも」  私はどきまぎしながら答える。これが推しに認知されるということかと私はオタク友達の言っていたことを思い出した。今まではその他大勢のメイドで、毒に耐性があるから雇えと言ってきた毛色の変な女、くらいの認識だっただろうに。この推しなら明日には忘れ去っているかもしれないけれど、今こうして関心を持って話をしている推しを見るのは新鮮で心臓が保ちそうになかった。  だから私には分からない。心臓がばくばくいっているのが推しと話しているせいなのか、薬の効果なのか。体がぽかぽかしたままなのも、お風呂の効果が続いているのか推しと話しているからなのか薬のせいなのか、全く分からない。 「ところでエマ。体の方はどう?」  推しの大好きな声で私は体をびくりと跳ねさせる。あの、と何か言わねばと思って口を開いた私は推しを見ることができない。待って、と心の中で訴えた。あの綺麗な顔を見たら間違いなくもっと心拍数が上がる自信がある。できるならその良い声で名前を呼ぶのも今は控えてほしい。汗が出ているのではないかと思うほど暑い。 「エマ」  推しが私を呼ぶ。思わず顔を上げてしまった私は推しの顔の良さに息を呑み、その破壊力に目をぎゅっと閉じた。咄嗟に握った両拳が震えているのが自分でも分かる。何かに縋りつかないと暑さでおかしくなってしまいそうだと思って私は自分の手を掻き抱くように反対の手で包んだ。 「暑い、です。心臓がばくばくいってて、緊張してるのかな。こんなにエリオット様と話すの、初めてだから」 「私と話すと緊張する?」  穏やかな声だった。はい、と私は素直に頷く。何となく恥ずかしくなって包んだ手を上げて顔を覆う。そっと目を開くと推しの長い脚の爪先が指の間から視界に入った。靴まで黒い。本当に全身真っ黒な服装でいて、白い肌と赤い唇に紫の目以外の色はないみたいだ。 「他には? 何か変化は」 「あ、う、その、よく分かりません、ごめんなさい」 「エマ、私を見て」 「ひゃうっ」  思わずまた体を震わせ、目を閉じた。恐る恐る目を開けて知らず俯いていた顔を上げた。推しが私を真っ直ぐに見ている。あぁ、顔が良い。そんな目で見ないでほしい。恥ずかしい。  体の奥から熱が迫り上がってくる気がして私は息を震わせた。自分の口から熱っぽい息が出ていることを知って私は今度は両手で口を塞ぐ。推しは楽しむように目を細めた。 「恥ずかしいです、見ないでください……」  辛うじて懇願すれば推しは首を傾げただけだった。こともあろうに、どうして、と問い返してくる。どうしてって。そんなの。 「分かりません……」 「嘘はダメだ、エマ。正確に教えて」 「うぅ……」  口を覆ってくぐもった声を返す私を推しは興味深そうに見て、ふと視線を逸らすと紙にカリカリとメモを走らせた。あぁそうだ、何となく勘違いしそうになっていたけどこれは治験だ。絶対に言いたくないけど体が求めているのは分かる。それが推しを前にしているからなのか薬のせいなのかは分からないけど、私は先日自分の恋心を自覚したばかりでもあるのにあんまりな仕打ちだと思う。 「それなりに期待していた通りの反応だ。悪くない。エマ、最後に訊くけど、濡れてる?」 「ひぇっ」  喉から自分の声とは思えない声が飛び出た。涼しい顔でそんなこと訊かないでほしい。 「わ、わからな……」 「なら触るよ」 「ひ、や、やめてくださ……っ」 「だって分からないんだろう。私だって服の上から見ただけじゃ分からない」  不機嫌そうに綺麗な眉が顰められた。駄々を捏ねるモルモットは彼も面倒だろう。彼は依頼をこなそうとしているだけだ。初夜からずっと痛がって泣いている奥方が痛みを忘れて泣きよがるような薬を求められている。痛くないようにするには受け入れる女性が充分に蜜を湛えるかそれに代わるものを用意する必要があるのは、経験が少ない私にだって分かる。 「う、うぅ……」  私は呻いた。これなら毒を呷って嘔吐した前回の方がマシだと思った。恥ずかしさと悔しさで目から涙が零れたけれど、彼はそんなの意にも介さない。このまま答えなければメイド服を捲られて見られるなり触られるなりされるのだろう。そんなのは、あんまりだ。 「き、気持ち悪いくらい、ぬ、ぬるぬる、してます……っ」 「そう、充分そうだね。ありがとう。解毒に半日かかるんだっけ。明日の昼まで此処にいられるように、メイド長にはエドワードを通して言っておくから」  彼はデスクの上の筆記具や薬を持って部屋を出ていく。扉が閉まって彼が離れただろう時間分我慢した私は、嗚咽をもらした。ぽろぽろと涙が溢れて止まらない。何に傷ついているのか分からなかった。ただショックで誰が聞いているわけでもないのに声を殺して泣く。それなのに体の疼きも止まらなくて私は絶望にも似た想いと一緒にベッドへ体を投げ出した。
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