16 泣き腫らした目の日

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16 泣き腫らした目の日

 体の毒は消えても泣き腫らした目はひどいことになっていた。朝起きた私は顔を洗うものの引かない目の腫れに、うーと呻き声をあげる。催淫の効果は半日も待たずとも一晩あれば治った。仕事に復帰することは問題ないのだけど、この顔を見せたらミリーは卒倒するのではないかと私は心配になる。アイリスだってどうしたと訊くだろう。朝食を食べに行けば料理長だって。 「うー……エリオットめ……」  私は推しを呼び捨てる。あの屈辱を私はきっと忘れないだろう。乙女になんて仕打ちをするのだ。私の意識は二十代も半ばの成人女性だけれどそれだってあんなのは、せく、セクハラだ。まして経験のないこの分身には可哀想なことをしたと思う。それに何より、薬の効能にしか興味関心がないのが悔しい。私の提案には関心を示したけれど、私をあんな目に遭わせることへの悔恨は何も感じられなかった。 「く……でも仕事を休んだという事実を残すのが嫌だ……」  私は苦渋の決断をし、朝食を食べに厨房へ向かった。料理長は案の定仰天し、アイリスは半分に割ったパンの片方をぽろりと落とした。 「どうしたのエマ! 目が、目がこのパンみたいに……ってうええええ、パンが落ちてるぅ!」 「どうしたエマ、誰にやられた。何があったんだ、いや、言わなくて良い、報復してきてやる!」  大騒ぎする二人に私は大丈夫、と苦笑した。派手な見た目になっているけどなんともない、目を擦ってしまっただけだと伝える。いやでも、ほら、と二人は気にしてくれたけれど私は、大丈夫だから、で通した。二人は私が昨晩、屋敷の主人に呼び出されたことを知らないのかもしれない。別に秘密にしていることではないけれど、思い当たらないならわざわざ言うことでもない。 「料理長の美味しい朝ご飯が食べれたら、今日も頑張れるから」 「お、おう。一杯食え。大盛りにしてやる」 「えー! 良いなー! アイリスにも!」 「お前は沢山食っただろうが!」 「そ、そんなに大盛りにされても食べられないから……」  困惑する私はそそくさと料理長の手から朝食をもらった。アイリスと並んで食べ、美味しかったと礼を言うと朝の掃除の支度をしてミリーのところへ行った。 「エマ……」  ミリーは頭が痛むのか片手で額を覆った。ごめんなさい、と私は思わず謝る。昨晩ミリーは心配してくれた。大丈夫だと言ったのは私なのに、結局こんな姿を見せる羽目になっている。 「いえ。こればかりは私も何もしてあげられなくて……私こそごめんなさい」  私たちはお互いに悪くないと言い合った。屋敷の主に楯突くことはできない。 「今日は一日お休みの予定と聞いていましたよ。動いて大丈夫なんですか?」  ミリーは私を心配してくれた。大丈夫、と私は同じ言葉を返す。いつか私の大丈夫を信じてくれなくなるだろうなと思うけれど、ミリーは分かりましたと頷いた。 「けれど今日はあまり無理をしないこと。私が手伝いましょう。諸々終わらせたら向かいますからね」 「はい、ありがとうございます」  私は微笑んだ。昨晩使った西の客間へ向かって私は部屋を掃除する。シーツを剥がして敷き直し、ランプを磨く。部屋の外を通った他のメイドにランドリーへ持って行ってもらうよう頼み、シーツを渡した。くるくるに丸めたけれど洗う時にはどうか他のシーツと紛れていれば良いと思う。デスクを拭いて椅子を戻しながら、ああやっぱり自分で洗えば良かったかな、まだ間に合うかなと考えてしまって落ち着かない。やっぱりそのシーツだけは自分で洗わせて欲しいと言いに行こう、と部屋を出たら階段を上がる推しと鉢合わせた。  最悪だ。  いつも自室にこもっているくせに、どうして今日に限って階段なんか上がっているんだこの人は。腕一杯に植物が沢山入っている籠を抱えている。毒草庭園から採取してきたのだろう。彼としても私が働いているとは思わず、この時間ならまだ眠っていると思ったのだろう。タイミングが悪いのは私だ。 「どうした?」  やはりと言うべきか、彼は昨晩のことなど何とも思っていなさそうだ。気まずそうな表情ひとつ浮かべず、純粋に驚いた様子で尋ねてくる。私は自分の感情を隠せないまま顔を顰めて、仕事中だと答えた。 「丁度良かった。部屋の扉を開けてほしい。それから悪いけど、多分靴の裏に泥がついた。ホールで落としてきたつもりだけど、ついていないとも限らない。拭いておいて」 「かしこまりました」  それは私の仕事でもある。毒草庭園を歩いてきたなら土が有毒ということもあるかもしれない。彼が歩いた道は全て毒に塗れていると思え、というのがこの屋敷のルールだ。  私は彼の前に立って彼の書斎へと向かった。最初に彼と会った部屋だ。あの時は何処をどう歩いたかまるで分からなかったけれど、今は目を閉じていたって目的の部屋に辿り着ける自信がある。それくらいこの邸内を歩いたし、掃除してきた。  私は扉の前に立つと手袋をした。毒を気にするものではない。主人の部屋のピカピカのドアノブに私の指紋を付けないためのものだ。普段の掃除では邪魔になったり水を使ったりすることから素手で過ごしていることの方が多いけれど、すぐ後ろで主人が使用人の一挙手一投足に目を光らせていないとも限らない。万全を期して扉を開けた私の横をするりと通って彼は室内へ足を踏み入れる。 「ありがとう。ああ、待って、要らないかもしれないけど褒美を」  褒美?   私は疑いの目を向けるけれど彼はこちらを見ていない。抱えていた籠を床に置くと大股に書斎の奥にあるデスクへ近づいた。フラスコや試験管のような器具が並ぶ其処は実験用のテーブルなのだろう。その中から小瓶を取り出すと戻ってくる。はい、と手ずから渡されて私は思わず両手を差し出していた。 「昨日、リラックスするって言ってただろ。異国から取り寄せたけどこれには期待していた効果がないようだから、きみにあげる」  私は小瓶に鼻を近づける。それは昨日、彼から渡されてバスタブに入れた液体と同じ匂いだった。花のような、甘くて、でも人を選びそうな香り。南国を思わせる芳醇なそれは異国と言われれば納得した。 「初夜にはその花を敷き詰めると聞いたから取り寄せたんだけど、雰囲気のためだけのものみたいだ。花そのものを取り寄せるには時間がかかりすぎてしまうからね。種と香りを抽出したものを取り寄せたんだ。香りは時間経過で劣化していく。使うなら早めにするんだよ」  説明されて私は受け取ったものがエッセンシャルオイルの類のものであると見当をつけた。それならお風呂に入れて香りが広がったのも肌がしっとりしたのも合点がいく。ありがとうございます、とお礼を言えば彼が目を細めた。 「目が腫れてる。昨日の薬のせい?」 「違います」  言葉で触れられて、辛うじてそれだけ返した。あの薬がもたらしたもののせいではあるけれど、厳密には薬の効果で腫れているわけではないから否定した。そう、と彼は答える。 「きっと苦しいよって、言っただろ」  優しい声で。私は益々眉根を寄せた。そうしないとまた泣いてしまいそうだった。どうしてそんな優しい声で言うんだ。まるで試されているみたいだ、と私は思う。何処までついてこられるか、何処まで耐えられるかと試されているみたいに感じた。そしてこれはきっと餞別だ。離れるなら今だと。これを持って何処へでも行けと言われているようだった。 「私」  泣きそうになるのを堪えて私は顔を上げる。推しの顔は今日も綺麗だ。今は心なしか優しい色を湛えているように見える紫を真っ直ぐに見て私は口を開いた。 「お役に立てましたか」  面食らったように彼は目を見開いた。それから悪い顔で笑う。此処でそれを言うか、とでも言いたげな、食らい付いてきた小さな獣を見るような顔で。 「ああ。実に有用だ。まだ試したいものが沢山あるんだ。また頼むよ」 「はい。私、逃げませんから。いつでも呼んでください」  失礼します、と頭を下げて私は部屋の入口から撤退した。掃除道具を持つと玄関ホールへと続く道をひとつひとつ目視で確認する。微かにだけれど泥が落ちていた。屈んで泥を擦り落としながら、窓の外に洗濯を始めたメイドたちの姿を見て洗濯は諦めた。
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