17 買い出しの日

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17 買い出しの日

「え、買い出し……ですか……?」  告げられた言葉に私はきょとんとしておうむ返しした。それを私に告げたミリーがそうと頷く。 「アイリスと二人で。特にエマ、あなたは買い物の練習をした方が良いでしょうし。それに今、手が空いているのがあなたたちしかいなくて頼めないんです」 「え、う、あの、お金の単位は分かったので買い物くらいできます! で、でも、美味しいものの見極めとかはできません。アイリスは?」 「直感に従う! 野生の勘!」 「美味しそうって思うものを選ぶのは大事だと思うけど! でもその買い出しってきっと、エリオット様の口に入るものなんじゃ」  責任重大では、と私は思って腰が引けた。食材選びは厨房の仕事だ。料理長主体で食材の選別を行なっているし、仕入れの業者も決まっている。そもそもこんな臨時の買い出しがある方が珍しい。 「むしろエリオット様からの頼みと言いますか、でもエリオット様が食べるものではないようで」 「? どういうことですか」  首を傾げる私の真似をしてアイリスも首を傾げた。ミリーも不思議そうな顔をしながら言われたことをそのまま口にしているようだった。 「薬を固形化するのに必要だ、って仰ってたけどどういう意味かしら」 「あ、あ〜。分かりました。それなら美味しいとか関係ないですね。私たちでも何とかなります」  そうなの? とアイリスが無邪気な顔で私を見た。そうよ、と私は答える。胸に少し痛みが走った気がしたけれど、通り過ぎるのが一瞬で掴むことはできなかった。 「何をどれくらい買ってくるようにって言われましたか」 「トウモロコシの粉末を、中袋ひとつです。急がないけれど今日中に、という話でした」  それは急ぎなのではと思いつつ、分かりましたと頷いて私はミリーから費用の入ったお財布を受け取る。先日、遂にお給金をもらってコートの買い物に行った私だが通貨の単位を知らなくて教えてもらった。その前にお給金を前借りして下着を買いに行った時はミリーがついてきたし、ミリーが必要な分を出してくれたから知らなかったのだ。邸内にいれば食事は出してもらえるし、特別に必要なものもなくて買い物に行くこと自体がない。だからミリーは私に買い物の経験を積ませたいのだろう。  これでも私は中身は二十五歳だし、買い物の経験も当然ある。この世界での買い物はあまりしたことがないけれど、通貨の単位を覚えてさえしまえば難しいことはない。アイリスにはどうしてたの、と驚かれてしまって、出身の村では物々交換で事が足りていた、ということにした。文明がなさすぎる。  それにしてもトウモロコシの粉末か、と私は思考の先を変えた。実際にも錠剤作りに使われることのあるものだ。先日の貴婦人のための薬は結局、粉末のまま渡したと聞いている。固めるよりも吸収速度が速く即効性が期待できるという理由だったはずだ。とするなら今回は錠剤作りの試験といったところかもしれない。  まだ二回しか推しの治験には付き合っていないけれど、その二回とも内容が違う。最初のイチイはもしかすると私の言っていることを確かめるためのものだったかもしれないから、治験は前回の催淫剤が初回だったとも考えられる。その一度きりで依頼の品を渡してしまえるということは、その調合で概ね問題ないと判断されたということだ。それは即ち、彼の調合が最初からほぼ完成されていたことに他ならない。原作では天才とも秀才とも表現されていた。色々混ぜていると言ったその配合率を変えて再度私で試すようなことはせず、恐らくは彼の名で作り、彼の名で渡した。人の体内に入るものを臆しもせずに。  まぁ、あの後に私以外の誰かで試していなければ、の話ではあるけれど。  データは多い方が良いのは私でも分かる。追跡する横断調査をするのでなければ個体差の影響がなるべくなくなるように縦断調査を行うのが基本だ。それにこの前のはただの催淫剤で命の危険を伴うような毒ではない。複数人に試すこともできるだろう。それで安全性を確認して渡していても不思議はない。  もしも、そうだったなら。彼が興味を持つような女性はその中にいただろうか。  ぶんぶん、と私は首を振る。いけない。そんな淫らなことを考えるなんて。推しはヒロインを盲目的に愛している。それはクイーンズエッグに出てくるお婿さん候補全員がそうだけれど、ヒロイン以外に目移りするなんてことはないだろう。だってあれは、そういう漫画だ。 「エマ? どうしたの? 大丈夫?」  アイリスがひょこりと顔を覗き込んできて私は驚いた。気づいたらメインストリートを歩いていて、いつの間にか邸内から出ていた。この前のお給金で買った簡素なコートもしっかり身につけていて、考え事をしながらも防寒対策をしていたらしい。 「う、ううん。大丈夫。ちょっと考え事してて」 「エマはいっつも考え事してて大変そう。少し肩の力を抜いたら良いと思うよ」  ブルネットの髪を今朝もミリーに纏めてもらったアイリスはにっこり笑って言う。言われてみればそうだな、と思って私も頬を緩めた。どうしたら推しの死を回避できるかとか、効率の良い仕事方法とかそんなことを考えている。この世界には私のための娯楽が少ないから、どうしても考えることが多くなってしまうのだ。 「そうね。花でも育てようかな」 「お花、良いね! アイリスの名前もお花だよ!」 「あぁ、そういえば」  アイリスはアヤメの花のことだと聞いたことがある。アヤメも毒のある花だ。根や茎などに毒性があるためガーデニングをしている人の手には湿疹ができやすいのだとか。 「お花屋さん、寄ってみようか」 「アイリスの花!」  元気一杯のアイリスは嬉しそうに笑うとその場でくるりと回った。身軽でダンスでも踊りそうなアイリスはとても毒を扱う伯爵の世話係の後継として育てられているとは思えないほど天真爛漫だ。少しヒロインに似ているかもしれない、と私は思う。アイリスの明るさに彼が触れることがあれば、少し良い方向へと舵を切れるだろうか。  雑貨屋さんでトウモロコシの粉末を買い、そのまま花屋へ向かった。あまり邸内から出ない私はアイリスに道案内も兼ねて色々なことを教えてもらう。路地裏などは入り組んでいて、何処をどう行けば何処其処への近道、と教えてもらっても覚えられなかったけれど、大体の通りの名前は知ることができた。 「お花屋さん! アイリスの花ありますか!」  大きな広場の軒先で簡易テントを張って店を出している花屋にアイリスが駆けていく。足取り軽いその様子に精神が二十五歳の私は同じように駆け出すことができず、遠ざかるその背に少しでも近づこうと足を早めた。アイリスは店員のお兄さんと楽しそうに話をしている。 「エマちゃん?」  声をかけられて私は声がした方へ視線を向けた。金の緩く波打つ髪を肩の辺りで結んで流した、空みたいな青い目をしたイケメンが立っている。 「す、かーれっと、さん?」  声だけでそう判断したのだけど前に見た姿と今得ている視覚情報とが一致しなくて疑問系になってしまった。今日はラフにシャツと細身のパンツを身につけていてこの前のドレス姿とは随分と違うけれど、それでも格好良かった。顔が良い上に背が高くてスタイルも良いから何でも似合うのだろう。推しにもぜひ黒一色ではなくて違う色の服を着てもらいたいものだと一瞬考えてしまった。 「やっぱりエマちゃん。こんにちは。あの夜以来ね」 「こんにちは、スカーレットさん、ドレスじゃなくてもとても綺麗ですね」 「ふふ、ありがと」  男性の装いもとても似合っている。男性も女性もどちらも恋愛対象と料理長が言っていたのを思い出した私はさもありなんと頷いた。どっちのスカーレットさんを見ても恋に落ちる人間がいるのは致し方ない。 「今日はお買い物?」 「はい、買い出しなんです。でも時間がちょっと余ってるから、お花でも見ようかと思って、あの子と」  私は視線を花屋へ向ける。アイリスはまだ花屋のお兄さんと楽しそうに話していた。スカーレットさんも私の視線を追って、あぁ、とアイリスの笑顔を見て頬を緩める。 「コート、買ったのね。二人とも着ているから伯爵邸の使用人って思っていない人も多いみたい。良かったわ」 「良かった? どうしてですか?」  私が驚いて見上げると、スカーレットさんは困ったように眉を下げて笑った。 「中に入ってさえしまえばあそこは良い場所だと分かるけど、世間の評判はあまり良くないのよ。黒伯爵なんて呼ばれているくらいだから、人には薬師よりも毒伯爵としての印象の方が強いの」  あぁ、そういうことか、と私は得心した。最初に伯爵邸へ送ってもらった馬車のおじさんも伯爵邸に用があると言えば怪訝そうな反応をした。そう言わせたのは私なのだけど、そうしても不思議はない土壌が此処にはある。だから伯爵が怖い人なら其処で働ける人もきっと怖い人なんだろう、というイメージの連鎖は起こっても仕方がないと思った。今の伯爵である推しは別に毒を用いて大きなことをしたわけではないけれど、先代の伯爵は毒を用いて更に先代にあたる兄を殺した。その衝撃がきっと強すぎるのだ。 「もう十五年も経つのにねぇ。アタシだってその頃まだ十二歳よ。アナタやあの子なんかは記憶があるかも怪しいじゃない。でも未だに話題にのぼるくらいの衝撃だったのよ、あの事件は」  その後のことも尾ひれがついた。関係がないことさえ、毒が絡んでいるのではないかと思わせた。私はそれを原作で知っているけれど、この世界に生きて伯爵家とは何の関わりも持たなければその噂を信じていただろうし軽々しく口にもしていただろう。そして得体の知れない場所で働く人さえ気味悪がったかもしれない。  伯爵邸が慢性的な人手不足なのは圧倒的にその噂のせいだった。求人を出しても人が来ない。出しても来ないからそもそも求人を出さない。雇ってくださいと言いに行った私はエドワードにはさぞ奇人に映ったことだろう。  伯爵邸で働く人は若い人が多い。エドワードが最も古株で、その次が料理長になるくらいだ。その下はミリー。大体が二十代の使用人ばかりなのは、スカーレットさんが言うように当時の衝撃を自分のものとして受け止められなかった世代だからなのかもしれない。  元々いた使用人はどうしたのか。一斉に暇を出したのか、それとも自ら暇を求めに来たのか。その渦中にいる推しは何を思いながら生きてきただろう。基本的に物静かで毒にばかり興味を示す推しは原作でもあまり心の内を語らなかった。それが考察という名の妄想を捗らせたのは間違いない。だから最後の声に出さない、愛していた、は私を動揺させたのだ。  あんな目に遭いながらも私は推しを想うことを止められなかった。馬鹿だと思う。でもだからこそ推しなのだと私は自分に答えを出した。それでも私は推しに生きていてほしいと願うのだから、止められるわけがない。 「エマー! アイリスの花、買ってこうよー!」  もしかすると当時の事件さえ知らないかもしれないアイリスが無邪気に笑って私に声をかける様子を眺めて私は泣きたくなる気持ちに蓋をした。
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