2 物語に入った日

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2 物語に入った日

 私は途方に暮れていた。右を見ても左を見ても荒野。おまけに吹き荒ぶ風が冷たい。寒い。現実だ。紛れもなく現実だ。仰いだ空は曇天。雨か、雪か。今にもそういった類のものが降ってきそうなぐずついた天気だ。確か設定した季節は冬に向かう秋、寒いに決まっている。  はぁ、と私はため息を吐く。よくできた夢ではないのか。夢は現実の情報処理だと言われている。起きていた時に見ていた情報を整理するための時間。私が起きている間に見ていたのは自分の二次創作の文字が紡がれる画面だ。あまりにのめり込みすぎてまだあの続きを夢でも見ているのではないだろうか。 「でもどう見てもペインフォードの外れなんだよな……」  記憶ははっきりとある。忘れもしない導入部と同じ景色に私は何度目とも知れぬ息を吐いた。私の書いた導入と同じなら、直に親切な馬車が通りかかり、ペインフォードへ行くなら乗せてってあげると言う。私は、否、分身は喜んでその申し出を受けるのだ。ペインフォードには推しがいる。兎にも角にも、推しに会わなければ話は始まらないのだと。  ガラガラ、と風の音しかしなかった世界に車輪の音が響いてくる。私は視線を音がする方へ向けた。親切そうな顔をしたおじさんの乗る馬車がこちらへ向かってくる。おじさんは案の定、荒野をひとりぽつねんと歩く私に目を止めて馬車も止めてくれた。どうしたんだ、と困惑した声が降ってくる。 「女の子ひとり歩くような場所じゃない。ペインフォードへ行くなら乗せて行ってあげるよ」 「わぁ、助かります。もう足が棒みたいで」  私は精一杯、愛想が良く見えるように笑って荷台の後ろに乗せてもらった。野菜や芋、牧草などが積まれた荷台によいしょと腰掛ける。  動き出す馬車に揺られながら私は考える。夢だとして、いつ目覚めるだろう。いや待てよ。いつか覚める夢なら楽しんだ方が良いのではないか。自分の書くお話の中の登場人物になった自覚を持ちながら見る夢なんて、中々ないだろう。それにどうせ全部は書いていない。その先が紡がれていない以上、夢はいずれ覚める。幸いにも有給を取っているし、いくら寝たところで咎められはしない。 「待っててね、エリオット」  車輪の音に紛れ込ませながら私は想いを零す。此処にいると気づく前、私はこの性癖を詰め込んだ分身が推しと出会い、何とか傍に置いてもらえるようになったところまで書いた。原作にある通りの展開を最初はなぞっていくつもりだけれど、ヒロインと推しが絡まないエピソードの時に推しが何をしているか分からない。其処は勝手に捏造することにした。  推しがどんな顔をするか、どんなことを言うか、勝手にエピソードを捏造して見てみたくなったのだ。これが俗に言う幻覚なのかもしれないと思いながら、そのエピソードに入ったところでそろそろ寝ないと限界を感じ、仮眠を取るつもりでブランケットをかけて机に突っ伏した。其処まで覚えている。そしてふと気がついたら、その世界にいるというわけだ。 「クイーンズエッグの世界に行きたかったとはいえ、こういう形は予想外すぎる」  私はクイーンズエッグの漫画を思い起こす。原作では時期女王候補のヒロインと彼女を守ろうとする四人のイケメンが陰謀渦巻く世界で奮闘しており、現状まだ恋愛には発展しないもののキュンとするエピソードがそれぞれに用意されている。其処で四人の背景が少しずつ明るみになり、重たい背景に悲喜交々の悲鳴が続出し、話題になった。推しのエピソードで私は見た目から好きになっていた彼の背景を知って見事に沼に落ちた。  ヒロインはオリヴィア・ロバーツという可憐な少女だ。栗色の髪に栗色の瞳と、平凡ながら愛嬌があり人に好かれやすい子として描かれている。決して人の悪口を言わず、健気に頑張る、良い子だ。陰謀が多いこの国を憂い、争いのない平和な国にしたいと望んでいる。女性読者の多い月刊誌ながら常識人でもあるところが共感を呼び、応援されている。  彼女は普段は王都と呼ばれる街に住む。女王も住まうその華やかな古都に淑女のための教育機関があり、オリヴィアは其処で勉強している。女王候補と判明してからは時々視察や百聞は一見にしかずと離れた地域まで来ることがあるし、離れた領地から領主でもあるイケメンたちが王都へ訪れることもある。最終的には誰かをお婿さんとして迎えて結婚し、この国を良いものにしていくことになるだろうストーリーだ。  英国をモデルとしたこの国は、イドラグンドと呼ばれる。王都、工業が盛んな地域、自然が多い地域、海を渡った少し先にある商業が盛んな地域の四つに分かれる。私の推しは自然が多い地域、ペインフォードを治める領主でもある、エリオット・フォーブズという二十四歳の若い伯爵だ。  贔屓目を抜きにしても、彼がとにかく美しい。大好きな女性声優が声を当てているから、というだけの理由でアニメから入った私は最初は中性的な見た目に美青年の声で男か女か判断し損ねてネット上ですぐさま調べた。どうせ原作を読めば分かること、と思う私はネタバレをあまり回避せず、むしろネタバレを見てから関心が深まることさえある。キャラクター紹介項目に男性、と明記されていて今回は完全に男性の役をやっているのかと大好きな女性声優の演技力と声帯の広さにうんうんと頷いたものだ。あの声に恋をしている私がハマるのは自然の摂理だった。  アニメを見て気になるとすぐ続きを知りたくなって原作を買うタイプのオタクである私は、アニメを視聴し終わるとすぐに原作を大人買いした。働いていて良かったとこの時だけは思う。読み耽り、推しのエピソードを読んで泣いた。救われてほしいと、その時から思っていた気がする。  推しの治めるペインフォードは荒野も多い。北に位置するために食物は育ちにくく、不思議な毒草が育ちやすい。寒さから雪が降ることも多く、人々は身を寄せ合って暮らし、パブも最も多い地域にあたる。毒草は上手く調合すれば薬にもなる。薬屋が多い地域でもあり、王都の医者も御用達の薬屋がいくつもあるし、このペインフォードでしか採れない薬草も多い。  推しのエリオットは、爵位こそ伯爵だけれど本業は薬師だ。知識も豊富で、さる筋から依頼を受けて調合もする。王都の女王が体調を崩すとエリオットの父が調合した薬が良く効いた。毒殺を恐れる女王は週に一度、解毒剤を飲む。それらを調合する技を受け継いだエリオットは重宝されている。だから食物が育ちにくい土地でも支援金は多い。けれど薬は扱いを間違えれば毒になる。そして彼は父が求めた薬を完成させようと躍起になって研究をしていた。過ぎれば毒となる薬の研究は、ある事件から尾ひれをつけた。  そうやって女王からの贔屓があるからか、それとも彼の研究に勤しみ愛想の悪いところからか、はたまた着ている服装からか、彼は黒伯爵と呼ばれる。毒を扱うイメージからも黒という色は何となくぴたりと当てはまってしまうのだろう。  彼のイメージカラーは真っ黒では画面映えしないのか、それともその瞳の色からか、紫だ。だが紫伯爵とは誰も呼ばないのである。それでも私は彼の宝石のような綺麗な紫の目をアニメや原作で知っているし、好きでもあった。その目の美しさに惹かれたと言っても過言ではない。  私も、と少し空を仰いで私は自分のデザインした容姿を思い出す。現実の自分とはかけ離れた、美少女の設定にした。黒髪なのは変わらないけれど、枝毛ひとつない綺麗なロング。そして彼の綺麗な目に憧れて私の目も赤くて綺麗な宝石のような目、ということになっていて、笑顔が可愛い。日に焼けると赤くなるタイプの白肌はシミひとつない。現実の私は推しよりもひとつ上の二十五歳だけど、この分身は二十歳の設定だ。少し小柄で守ってあげたくなるような、愛される存在、のはずだ。  願望がこれでもかというくらい入っていて恥ずかしいけれど、どうせ誰にも見せない私のための救済の物語なのだから誰に遠慮する必要もない。自分のつけた設定には満足しているので全く気にしないことにした。 「そろそろ街に入るよ。何処か行きたいところはあるのかい」  親切なおじさんが声をかけてくれる。私は振り向いておじさんの背中に向かって自分が打ったのと同じセリフを答えた。 「黒伯爵様のお屋敷に行きたいの」
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