3 自分を売り込んだ日

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3 自分を売り込んだ日

「黒伯爵様のお屋敷?」  おじさんは怪訝そうな声で返した。やめた方が良いんじゃないのか、何の用があるのか、と問いたげな声だ。私はにっこり微笑む。彼が領民に慕われたのはヒロインと関わった後だ。今の時点ではまだ、誤解されている。 「黒伯爵様と言えば、大きな声では言えないけれど怪しい薬を作る実験をしていると言うじゃないか」 「良いんです。私、きっと黒伯爵様のお役に立てるから」  第一巻の、まだヒロインも時期女王候補と判明していない頃。彼が疑心暗鬼に囚われ誰のことも信用できないと塞ぎ込んでいる頃。まずは彼の近くにどんな立場でも良いから転がり込む必要がある。私はそう判断し、特殊設定そのいちを盛り込んだ。この設定は推しなら喉から手が出るほど欲しいものだろう。憎悪を向けることもあるかもしれない。  それでも良い。まずは彼に、どんなものであっても他者への関心を向けてほしい。 「何かあったらすぐ逃げるんだよ」 「ありがとうございます。親切なおじさま。おじさまもどうぞ、帰り道はお気をつけて」  笑顔が可愛い私の顔を見たおじさんは頬を緩めた。荷台から降りて丁寧にお辞儀をした私と、また会う機会があれば、とお互いに挨拶をしておじさんは馬車を走らせる。私は推しの住まう屋敷を見てひとつ深呼吸をした。  ペインフォードの市街地は荒野の中にあるとは思えないほど栄えていた。人はそれなりに活気に溢れているが、寒々しい風のせいか空元気のようにも見える。だが笑っていなければやっていられない、という雰囲気も感じ、それを毎日何とか繋いでくれるのがパブの存在なのだろうと思わせた。  私は大きなお屋敷へ近づいていく。瀟洒(しょうしゃ)な鉄門扉を開き、長い道を進む。豪華なお屋敷は壁面を蔦が這い、覆ってしまっている。白い壁は夏の日なら緑の蔦とコントラストが美しいのだろうが、曇天の下で見るとひどく陰鬱だ。刈れば良いのに、と思うものの植物を愛する彼にそれは無理か、と思い直す。正面からは見えないけれどこのお屋敷には温室もある。珍しい植物を育て、薬草も栽培している筈だ。  ドアノッカーの顔が見え始めた頃、一室のカーテンが揺れた気がしてそちらへ視線を向けた。けれど人はいない。ただ、レースのカーテンが少しばかり揺れている名残は見てとれた。  荷物ひとつ持たない私はドアノッカーを掴んで叩く。角のある馬を模したノッカーは非常に掴みづらく、誰がこんなのつけましょうと言ったのかと私は眉根を寄せた。  数回叩けば中から返答があった。重たい錠が回る音がし、ぎぃ、と古めかしい音を立てて扉が開く。推しのエリオットを支える執事のエドワードが現れて私は何となく感動した。勿論こうやって訪れた主人公を最初に迎える人としてエドワードを設定したのは私なのだけど、実際に目の前にするととんでもなく感動する。 「どちらさまでしょうか」 「あ、あの、エリオット様に私を雇って欲しくて来ました!」 「はて。今、メイドの求人はなかったと記憶してますが」  エドワードはエリオットの父親が領主だった頃からこのお屋敷に仕えている大ベテランだ。モノクルがきらりと光って格好良い、壮年のイケオジである。口元の整えられた髭を白い手袋をした指先でいじりながら、エドワードは私を品定めするように頭の天辺から足の爪先まで眺める。当然のことだった。 「メイドじゃないんです。あの、エリオット様はお薬の調合がお得意ですよね。でも、初めて使うお薬とか、初めて触る薬草とか、おありなんじゃないですか? 私、毒に耐性があるんです。きっとお役に立てると思って、遠路はるばるペインフォードの奥地からやってきました。  名前もないような小さな村でしたけど、私は其処で同じような役割を担っていました。ただ、寒さが厳しい村なのでこの前の寒波で多くの人が死んでしまって。村人は散り散りになりました。私も行く宛がなくて。もし良ければ雇って頂けると本当にありがたいんですが」  物語には天涯孤独が多いと思っていたけど、天涯孤独は主人公を動かすにあたって非常に楽だということを私は知ってしまった。身寄りのない主人公がひとり彷徨う理由としても、天涯孤独なら仕方がない、家族がいないなら仕方がない、と思わせやすいからだ。だから私もその先人の知恵をありがたく借りることにした。  勿論、現実の私の両親は健在だし妹との仲も良い。自分で書いた話は都合上、あまりに嘆き悲しんだ私を憐れんだ女神様が三つの贈り物と共にこの世界へと送ったことになっているけれど、別に戻りたくないわけではない。これは夢だし、いつこの世界から目覚めるか判らない。でもこれは私の紡ぎたい物語だから、正直なところいつ目が覚めたって良いのだ。起きたら私はまた推しを救うための言葉を紡ぐだけなのだから。 「ふむ」  エドワードは考える。これは本文には書かなかったことだけれど、エドワードはエリオットを本当に心配している。心の底から支えになりたいと思っているし、幼い頃から、何なら産まれた時から知っているエリオットを誰よりも見守って来ている。この屋敷で一番の理解者と言っても良い。それでもそんな彼でさえ、エリオットを救うことはできなかった。エリオットが一番である彼にとって、見知らぬ娘は怪しさ満点であり、近づけたくない筈だ。けれどその体質が本当なら、エリオットの負担を軽減できるのもまた確かだ。だからエドワードは私を利用しようと考えるだろう。そして私はそれを見越して、不利にならない条件をチラつかせて自分の望みを叶えようとする。  私の解釈だとエドワードはそういう人物だ。だから私の解釈で紡がれるこの物語で、彼は言う。 「すべての決定権はエリオット様にある。嘘であればつまみ出せば良いだけですからな。お目通りが叶うかはエリオット様次第だが、まぁ、良いでしょう。どうぞ」 「ありがとうございます」  私はにっこり笑って小さく会釈する。お互いを利用しながら私はひとまず屋敷へ足を踏み入れた。真っ赤な絨毯は足音を吸収して、ふかふかだ。私が自分の部屋に敷いているラグマットより推しのお屋敷で敷いている玄関マットみたいなものの方が高級なのは、流石伯爵様、というところなのだろう。  エドワードの後について私はひとまず応接間へ通される。いきなり主人の部屋には連れて行かれる筈もなく、私も重々承知しているからガッカリなんてしない。此処でお待ちを、と言われて素直に頷き、緑を基調としたソファに腰掛ける。客人を長く居座らせるつもりがないのか、ソファはお尻がすぐ痛くなる硬さだった。  メイドのお姉さんが白い手袋をした手で用意してくれた紅茶もお礼を言って受け取った。この地域で取れるハーブが使われている。毒が入っていても私は自分に設定した毒に耐性のある体質を信用している。それにそもそもこれは夢の中だし、毒が蝕んでも目が覚めるだけだろう。だから躊躇いなく紅茶を飲んだ。 「美味しい」  素直な感想がもれた。温かくて、清涼な後味が残るハーブティーはカモミールティーに似ている。元来、コーヒーよりも紅茶派の私は苦もなく紅茶を味わった。メイドさんは私が特に用がないと言うまで其処に立っていた。紅茶のお代わりを頼めば淹れてくれただろう。けれどきっと忙しい筈だ。だから私からの用はないことと、もし此処にいるような命令がないなら外して構わないことを伝える。  応接室に私のポケットに入るような大きさの高級品はない。絵画や調度品などは品の良いものだと思うけど、誰にも知られずに持ち出すほどのスパイの技術が私にはなかった。  現実の私と同じくらいの歳に見えるメイドさんは一礼して去った。私は静かな応接室で時計の音を聞きながらエドワードか誰かが戻ってくるのを待った。ちびちび飲んでいたハーブティーを飲み終わる頃、エドワードが現れて私は立ち上がった。 「お待たせしました。エリオット様の許可が出ましたので、ひとまずは面談、と参りましょう」  就職面接だ、と私は襟を正す思いで頷くと再びエドワードの後に続いたのだった。
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