4 推しに会った日

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4 推しに会った日

 何処をどう歩いたのか緊張していて覚えていない。私はただエドワードの壮年にしては細身なのにがっしりとした背中を追いかけただけだった。階段を上がったような気もするし、下ったような気もする。原作でも推しの書斎は内装が描かれたけれど場所までは描かれなかった。だからこれは、私の捏造になる。 「エリオット様、例の娘を連れて参りました」 「……入れ」 「!」  大好きな女性声優の声で喋った! と私は思わず内心で悶え、外目には一瞬固まった。文字の上だけでは得られなかった情報だ。私の夢、最高だ。良い仕事をしている。えらい。  密かに感動で身震いした私を怯えたと取ったのだろうか、エドワードの目がモノクルの奥で少し翳ったように見えた。何だか一気に緊張した私は失礼します、と震える声を叱咤しながら部屋の扉に手をかける。  ぐっと丸いドアノブを押し開いた扉の向こう、厚いカーテンで陽の光を遮って、閉めきれなかった隙間から漏れ出す細い光が壁を照らすのが見えた。白いクロスをかけたテーブルの上に置かれたランプは火が灯っており、そうやって火を使っているせいか少し熱気を感じた。暖かい。  推しは本棚の前に立っていた。細い体躯を黒い簡素な服で包んでいる。白皙の肌がその黒に映え、浮かび上がってより白く見えた。黒髪はランプの光でさえその艶やかさを強調し、後ろ髪は短く、目元を隠すように前下がりに伸ばされた前髪は彼にとっての右側で分けられているから右目はよく見えた。綺麗な宝石みたいな紫の瞳。私はその目に吸い込まれるような錯覚を覚え、釘付けになった。鋭く、冷たく、私に興味がないのだろう目はそれでも、今だけは私を驚いたように見る。あぁ、生きてる。私はうっかり泣きそうになった。 「……きみ、名は」 「名前……え、恵麻、です」 「エマ。へぇ、毒に耐性があるっていうのは本当なんだ」  思わず本名を答えていたけれど意外と馴染む名前で良かった。お父さんお母さん、ありがとう。推しに名前を呼んでもらえた。より一層大事にします、この名前。そしてありがとう大好きな声優さん。あなたの声、本当に本当に大好きです。 「ドアノブ、素手で触ったね。あれには常人なら即かぶれる植物毒を塗っておいたんだけど」 「は?」  推しはふむと考え込む素振りを見せた。私は呆気に取られる。いや、なんか、そういうの書いたけど。でも自分で書いといて何だけど、初対面の相手に毒を試すとかどうなってるんだこの人。いや、私が書いたんだけど。そうやって客人を追い返すエピソードがあったから相手が誰であろうと容赦なくやるだろうと思ったからだ。でも体験すると何てことするんだと思ってしまう。起きたらこの部分は書き直そうかな。それにしても顔が綺麗だな、推し。 「嘘ではなかったというわけだ」 「エリオット様」  エドワードが(たしな)めるような声を扉の向こうで出したけれど、私は気にしていなかった。本当です、と答える。まだ残る緊張で可愛い笑顔を披露することもできない。推しは冷たい目で私を見る。体の内側まで見通そうとするかのように。どんな思惑で近づいて来たのかと見定めるように。途端にぐっと周囲の温度が冷えた気がして、けれど私は密かにテンションが上がっているので怖くはなかった。ただ、本気であるのが伝わるようにと願った。  まるでファンだ。いや推しに対してのファンではあるから間違いではないのだけど、こんなに熱っぽく見てしまって大丈夫だろうか。顔の良い推しを前にして平気なわけはないのだけど、まぁ私も内面は二十五歳なわけだし、多少は平静を装えていたら良いと思う。 「私を雇ってもらえませんか」  精一杯、熱意をこめて私は言う。すぅ、と真意を計ろうとするように推しの綺麗な紫が細められた。黒伯爵と呼ばれ、初対面の相手を常人ならかぶれるような毒で試し、それでも怒ったり怯えたりせずに雇ってほしいと訴えてくる娘は果たして彼にはどのように見えるだろう。 「毒を受け付けないなら精々が手袋代わりにしかならないだろ。雇う意味がない」  私から興味を失ってその紫が離れる前に慌てて口を開いた。意味ならありますと食い気味に言えば推しは外しかけた冷たい目をまた私へ向ける。聞こうとはしてくれている。 「私、毒を摂っても半日あれば体の中で解毒してしまうんです。だから毒では死なない。それがどれだけ有用か、解って頂けますよね?」  私は必死に自分を売り込む。前職でも今の職場でもこんなに必死に売り込んだことはない。でもこれは私がうんうん唸って考えた贈り物のひとつだ。彼の傍にいるために不自然ではない理由。彼が歩む未来の行き先を少しでも逸らすための、別れ道を塞ぐための人柱。 「ふぅん。つまり私専用の、被検体になってくれる、ということ?」 「エリオット様」  再度エドワードが扉の向こうで嗜めるどころか咎めるような声を出したが、私は構わなかった。そのつもりで望んだ贈り物だ。 「はい。どんな毒でも試し放題です。例え仮死状態にする毒を呷ったとしても、私は目を覚まします。  あ、でも切り刻んだりしたら普通に戻らないし死ぬので試すのは毒だけでお願いします」 「凄い自信だ。死なないとは言っても嘔吐したり痙攣したりはするんだろう?   きっと凄く苦しいよ」  表面上は優しげに。文字だけなら案じているようにさえ聞こえる言葉も、私には違って聞こえた。声にも、綺麗な紫の瞳にも温度を感じられない。彼は知っているからそう言う。拒絶だ、と思う。前職で沢山見てきた拒絶の色。どうせできるはずがないという諦観にも似た、それなら求めずに最初から掴むことさえしない選択。けれどその奥に縋りたいと願う、怯え震える手が隠れていることを私は知っている。彼をひとりにしてはいけない。私は推しを、彼を、救いたいと願うのだから。  烏滸がましい願いだと承知している。救いたいなんて、それこそ神様みたいなことを言っていることも。救われたいのは私で、そのために推しの命を救おうとしていることも。それを履き違えないように戒めながら、私は自分の望みを再確認する。  推しを、救いたいだけなのだと。 「私、お役に立てると思います」  言い返すのは生意気だったろうか。でも推しには生きていてほしい。そのためなら私は、普段しないことだってできてしまうようだ。 「だからエリオット様、私を雇ってください」  傍に置いてほしい。どんな感情であっても良い。誰かが傍にいることを、当たり前のこととして受け入れられるようになってほしい。そのための一歩は嫌悪でも良い、拒絶でも良い。まず他者へ向ける感情を沢山、この人から引き出したい。 「きみを雇って私に何か利点がある?」  声も表情も冷たかった。実際に相対するとそれは背筋がぞっと凍りそうになるほどの威圧感なのだけど、私はあえてにっこりと笑って両掌が彼に見えるように肩の位置まで上げる。 「そうですね、少なくとも手袋の消費は抑えられるかと思いますよ」  先ほどの言葉を返して、私は強気に笑った。このお屋敷の人は皆、手袋を身につけている。それは推しと毒とが切っても切れない関係であるからなのだけど、その中で私だけは素手で生活できる。内心きっと誰もが毒を怖がっている。毒を扱う推しのこともきっと。だけど私は示す必要がある。この威圧感の中でも臆さず、あなたの傍にいる決意があるのだと。 「……部屋を用意しろ、エドワード」 「よろしいので?」 「使えなければつまみ出せば良い。手袋になると言っているんだ。その分は働いてもらうよ、エマ」  エドワードを向いた筈の推しの視線が不意に向けられて心臓が止まった気がした。いきなり良い声で名前を呼んだり綺麗な顔をこちらに向けたりしないでほしい。ただ画面の向こうにあったものが、紙一枚隔てないと見ることさえできなかったものが手を伸ばせば触れられそうな距離にある。生きてる。私にはそれだけで充分なのに、不用意に名前を呼んだり綺麗な顔でこちらを見たりしないでほしい。 「ん゛んっ」 「何だその返事は」  眉根を寄せて怪訝そうな表情を浮かべた推しはそれでも顔が良く、私は胸の内で、待って、と誰に対してか分からない静止をかけた。大丈夫、心臓、動いてる。脳が大興奮して夢から覚めてしまうのではないかと思った。まだ覚めないで。もう少し、この夢を見させて。 「ごめんなさい。働きます。大丈夫です。何からしますか」  胸の動悸を抑えるように手を当てながら私は言う。別に何も、と推しは言う。 「べつになにも?」  聞き間違えたかと思って私は繰り返した。そう、と推しは手元の本に視線を戻す。早く出て行け、と言われている気がして私は困惑した。いやまぁ、そりゃ、最初から急に距離が縮まるなんて思ってやしないけど。  働いてもらうって言ったばかりなのに。気まぐれな人なのか、と思いながら私は頭をフル回転させる。彼の言葉の端々から彼の人物像を修正した。ヒロインのオリヴィアと出会うより前のほとんど捏造しかない時空だ。私の無意識の印象が影響していることは多分に考えられる。それを修正しないまま進むと後々できっと行き詰まるだろう。早いうちに把握して原作の推しの人物像と離れないように調整しなくてはならない。 「分かりました。何か試したい毒とか出てきたらいつでも言ってくださいね。  あ、ドアノブのは常人ならかぶれる毒だって話なので私が拭きます。拭いたものを洗うのも私が。でも拭いて良いものが何処にあるかとかは分からないので教えてもらえませんか」  私は扉に戻りエドワードへ話しかける。エドワードは驚いたように少し瞠目したけれど、主人である彼をちらりと見て何も言わないのを確認すると頷いた。 「ご案内しましょう。エリオット様、扉は閉めても?」 「ああ、構わない。ひとりにしてくれ」 「かしこまりました。では、失礼致します」 「失礼します!」  私もぺこりと頭を下げて部屋を出ると扉をそっと閉めた。失礼にあたるかと思って顔は上げなかったけれど、扉は慎重に閉めた。ぱたん、と微かな音をさせて扉は閉まる。勝手に開いてくる気配もない。ふぅ、と一息ついた私はエドワードが何も言わず、足音もほとんどさせずにもう歩き始めているのを知って慌てて追いかけた。
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