6 働く日

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6 働く日

 推しに雇って欲しいと伝えてから数日経った。流石に私もおかしいと思っている。夢の中で何を何度も寝起きを繰り返し、朝を迎えているのだろう。あまりにも長い夢を見すぎていないだろうか。 「エマー」  それでも前職で社畜時代を過ごしすぎた私は毎朝ちゃんと起きて仕事をこなしていた。ミリーの後継であるアイリスが声をかけてくる。長い髪を纏めるのがあまり上手ではなくてお団子にした間からぴょんぴょんと短い髪が跳ねて飛び出していた。ミリーはそれをいつも叱るが、だってぇ、とまだ十八歳のアイリスは唇を尖らせる。手のかかる子は可愛いのか、ミリーは叱るものの本気ではない。身だしなみはしっかり整えるように、と言いながら歳の離れたお姉さんのようにアイリスの髪を結い直す。アイリスはその時間を喜んでいる様子でもあった。  私も長い黒髪を纏めている。枝毛ひとつない綺麗な髪は特にお手入れをしなくてもサラサラと流れて纏まりにくいのだけど、庭で手頃な枝を拾ってからは一本挿の簪の要領で手早く纏めることができるようになっている。庭で拾った枝、というのがまた何とも不恰好ではあるのだけど綺麗に纏まってさえいればミリーは何も言わなかった。ペインフォードの外れにはそういう文化があるらしい、と思っているのかもしれない。  この長い夢をおかしい、と思いながらも私は着々と此処で働く面々との関係性を築きつつあった。ミリーやアイリスが親切で私が理解できるまで仕事を教えてくれることもあるし、私が馴染めるようにと気を遣って他の働く人たちに紹介してくれたおかげだ。特にアイリスの人柄は愛嬌があり、コミュニケーションお化けと言っても差し支えなかった。  推しは相変わらず部屋に籠り、私で毒を試そうとはしない。これは少し意外だった。客人を追い返す口実に新しい毒を試したかったんだと原作では言うような人物が、致死量の毒を与えても死なない実験体を手に入れたのに呼びつけない。私としてはいつ呼び出されても良いように覚悟をしているのだけど、推しは私を雇ったことさえ忘れてしまったのではないだろうかと疑うほど何もない。  そして私が書いた二次創作は推しに雇われたところまでで止まっている。この先は仮眠から起きたら書こうと思っていたから、全くの白紙だ。いつ目覚めるのだろうか。それとも考えていたことが先に夢で現れているのだろうか。二次創作に限らず自分の手でお話を紡ごうと思ったことが初めてでこういうのがよくあることなのかどうか全く分からない。  そして私の有給はまだ残っているだろうか。というかご飯も食べずに寝続けているけど大丈夫だろうか。無断欠勤はしたくないけどもしそうなってしまっても普段の勤務態度から心配して誰か来てくれるだろうから、早めに見つかれば良いと思う。大切な人が死んだ、と口走った私の様子は相当にひどかったのだろうから、そうなってもやむなし、と思ってもらえる……と良いなぁと思う。  あるいは深い眠りに就いて既に病院のベッドの上かもしれないし、夢にしては五感がありすぎるからもしかしたら私ごとこの世界に来てしまったのかもしれない。もしくは連日の激務がたたって、死んでいる、ことも考えられる。  両親や妹は悲しむだろう。仲は悪くないし転職してからの年末年始は帰省もできた。繁忙期で激務になっただけで、普段は定時で帰れるような会社だ。やっとそういうところに転職できたと喜んでいたのに推しのグッズで作った祭壇の側で死んでいる私を見つけたら……あぁでもどうか、遺書はないからパソコンのロックを外さずに壊してほしい。家族に二次創作を見られる恥ずかしさはそれだけで死ぬ。  肝心の推しは部屋から出てこないからあれ以来生きている姿を見ていないのだけれど、着替えなどを用意するミリーによると食事もしていると言うから生きているのは間違いないのだろう。不思議と生きてると実感してから私の気持ちは落ち着いている。この世界線では生きているのを感じられたから大きな喪失感からは解放されたのかもしれない。そしてこの世界線で推しには幸せになってもらうのだ。 「さぁ、今日もしっかり働きますよ」 「はぁい」  ミリーが声をかけ、アイリスが返事をする。私も返事をし、端切れと消毒液を持って決められた清掃ルートを辿った。貸与されたメイド服の長い裾を翻しながら絨毯の上を進む。お屋敷の人には私はすっかりミリー直属のメイド見習いとして認識されていた。  このフォーブズ邸の主人は私の推しであるエリオットだけれど、家族はいない。つまり彼以外は全て使用人ということになる。全員が彼のために働き、彼が快適な生活を送れるように影のように働く。私はエプロンのポケットに忍ばせた入れ物を上からそっと抑えた。毒を扱う主人に仕えるという性質上、手洗いが推奨されているが頻回な消毒は手を荒れさせる。彼なりに労って使用人たちに特製のハンドクリームを支給していて、私もミリーからではあるもののハンドクリームを賜った。推しからもらった初めての物に私は内心でテンションを上げすぎてその夜はあまり眠れなくて何度も取り出しては眺めた。  推しの本業は薬師だけれど、薬を扱えるということは裏を返せば毒にする術も知っている、ということになるのだろう。黒伯爵と呼ばれる彼を使用人たちが知らないはずはない。だから彼の周りには立場を抜きにしたって近づく人は限られる。彼が通った跡には毒の華が咲くと思えと、推し自らが言うらしいからだ。私はまだ聞いたことがないのだけど!  私は毒に耐性があることを売りにしたためか、邸内の拭き掃除を任されている。屋敷の外壁を覆っていた蔦も実は毒草で、その蔦の葉から取れる成分がひどくかぶれる物らしい。恐らく初日にドアノブに塗られた毒はそれだ。屋敷の壁を覆っているそれはまだ邸内に入り込みはしないもののいつ隙間を縫ってきてもおかしくはない。その除去と、人の手が触れる場所の拭き掃除を毎日念入りに行うと、時間はあっという間に溶けた。それでも苦はない。掃除をして手を洗う度に推しが作ったハンドクリームを塗る権利を得られるのだ。  私は窓側にある部屋のドアノブを拭きながらふと窓の外に視線を移した。その窓からは中庭を見ることができた。中庭は推しが育てている毒草庭園がある。温室まであり、暖かい地域の毒草も取り寄せて世話しているようだ。窓からはその一画しか見えないし、大体が緑の葉っぱがあることしか分からないのだけど、原作では推しが足繁く通う場所でもあったから眺めていれば推しの姿を少しでも見ることができるのではないかと思っていた。この数日、タイミングが合わないのかまだ一度も見れてはいないけれど。  推しひとりでは広大な庭園を管理するのは難しいのか、庭師が雇われていた。庭師の姿は何度か見かけたことがあり、私同様に見習いらしい少年が窓から眺めている私を見かけて大きく手を振る。まだ幼い、十二歳くらいの少年は庭師の弟だとアイリスが教えてくれたことがある。私もそれに手を振り返し、兄に怒られたのか慌てて止めていた足を動かして走っていくのを見守った。私も拭き掃除を再開し、大広間の振り子時計がお昼を告げた後、休憩のために厨房へ向かう。 「よぉ、エマ。いつものサンドイッチ作っといたから、それ食べたらまた掃除頼むな」  厨房では料理人が数人、朝からずっと忙しそうに働いている。主人の食事だけでなく使用人たちの賄いも準備してくれる料理人には頭が上がらない。腕が良いのかサンドイッチさえ美味しく、私は食事の時間が楽しみだった。現実では何も食べてないだろうに、夢ではこんなに美味しいものを食べている。 「ありがとうございます。今日も美味しそう!」 「少し多めにもらえたからな。新鮮な野菜、使ってるぜ」 「わぁ、嬉しい!」  料理長は気さくで、使用人たちから慕われていた。四十代くらいに見える男性の料理長は夕食の下拵えを始めていた手を止めてサンドイッチを頬張る私をじっと見る。口からはみ出ないように片手で口を覆いながら、何ですか、と私は首を傾げて尋ねた。 「いや、お前はいっつも美味そうに食べるよなぁ。それが嬉しくてさ。エリオット様の口にも合うものが作れてると良いんだが」 「絶対大丈夫ですよ! サンドイッチさえこんなに美味しいんですもん! 料理長の腕は私が保証します!」 「お前に保証されてもなぁ」  料理長は笑う。えー、何でですか、と私は少しむくれたけれど何でも美味しく感じる私では確かに自信にはならないのかもしれない。すぐさまぺろりと食べ終わってしまった私は皿を下げようと立ち上がり、料理長に制されて皿を受け取ってもらってしまった。 「料理人なんてのは、美味いって言われたいし喜んでもらう顔が見たくて作ってるところはあるんだよ。今はお前がそれをやってくれるからな、これからも頼むぜ」 「こちらこそいつも美味しいご飯ありがとうございます。これからも楽しみにしてるのでよろしくお願いしますね! ご馳走様でした!」  私はにっこり笑うと掃除を再開するために厨房を出る。そして拭き掃除をいつもより早く終えられたところへ庭先の掃き掃除を頼まれて冷たい風吹く外へと夕暮れに出て行ったのだった。
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