8 推しとの食事の日

1/1
前へ
/25ページ
次へ

8 推しとの食事の日

「とんでもないことですよ、エマ」  数人のメイド仲間に体をごしごし洗われ頭もわしゃわしゃ泡立てられながら私はミリーの焦った声を聞いていた。ミリーはメイドたちの行いを監督するだけで私を洗いはしないもののそわそわと落ち着かない様子だ。 「エリオット様が誰かと食事をしようだなんて! 厨房は今大慌てで準備をしています。エドワードでさえ慌てていました。ドアに体当たりする勢いで入ってきたんですから」 「そ、それは、わぷっ、すご、へぷっ」  何とか返事をしようとするものの髪の毛の泡を洗い流されて口に泡が入らないように私は閉じなければならなかった。途切れ途切れの返事をミリーは聞いていないようで遂には左右にうろうろ歩き出してしまった。 「あなたに着せる服を選ばなくてはなりません。でもあなた、着の身着のまま此処へ来て、下着を買う余裕もないからと給金を急遽前払いでもらっていましたよね。他の服なんて、ましてエリオット様の前に出る服なんて」 「持ってないです」  隙を見て私は答える。実際に生活を始めようという段階になって私は自分の体ひとつで此処へ来たことに気付いてしまった。その時に身につけているものしかない。この世界の通貨も持っていない。特殊設定に必要な分のお金が常に入っているお財布を持っていることにすれば良かったと本気で悔やんだのもその時だ。恥を忍んでミリーに相談へ行ったのに、無意識だろうがメイド仲間にこんなところでバラされるなんて恥ずかしい。 「で、でも、私、新しい毒を試すんだと思うのでいつもの支給して頂いた仕事着で充分だと思います。実際にお仕事ですし、きっと汚してしまうから」  嘔吐したり痙攣したりする、と推しは言っていた。解毒できる特殊設定しかつけなかった私は症状について何も考えていなかったから、きっとそうなるんだろうと思う。其処まで都合の良い能力ではない。死なないと分かっていることだけが救いだ。いっそ死んだ方がマシ、と思うような毒もあるかもしれないけれど。というか夢だし、多分強い刺激を受けたら流石に起きるだろう。 「社畜時代にゾンビに追われる夢を見た時もいざ噛まれるってところで起きたし」 「しゃち……? ぞん……? 何を言っているんです。服はそれで良いとしても、あなた、エリオット様の前に出るに相応しい状態にはしますからね」  口に出ていたらしいことをミリーは流した。普段の影として働くだけなら認識されないように最低限の身だしなみを整えて目につかないよう働いていれば良かったけれど、認識されるならそれではダメとミリーは思っているらしい。  メイド長の意見には従わなくてはならないので、私は大人しく抵抗せずされるがまま受け入れた。  体の埃を落とし、磨かれて、沢山のタオルで水分を取ってもらう。電気のないこの世界でドライヤーを使うことはできないから、人海戦術だ。乾いたタオルで人が訪れては髪を挟んでタオルドライする。結局は服がメイド服だから華美な装いはできないしそんな立場でもない。でも拾った枝で髪を纏めるのはダメだと怒られ、半乾きの状態でもミリーが上手に髪を纏めてくれた。新しい下着を身につけて、おろしたてのメイド服を纏って。きっと汚してしまうと思うけど、小汚い格好で推しの前に出るわけにもいかないから私は何も言わずに受け入れた。  夜の七時ギリギリに何とか支度を整えて、ミリーが満足そうに息をつく。 「許容範囲でしょう。さぁ、食堂へ」  ミリーに連れられて私は食堂へ向かった。七時の大時計の鐘が鳴って、推しも食堂へ現れる。映画とかでしか見たことがないような長いテーブルを私は初めて見た。というか食堂へ足を踏み入れるのも初めてだ。推しは普段自室で食事を摂るから食堂を使うことがない。だから私が拭くべき毒も此処にはない。  以前はお客さんを招いてパーティーをしたこともあったのかもしれない。少なくとも家族だけが食事を摂る場所として想定されていない広さの食堂は、二人だけで食事をしようとすると当然スペースが余った。部屋の中央に長テーブルを置き、白いクロスをかけて火を灯した燭台を二つ、設置する。花を生けた花瓶も置いてあるけれど、あれ、玄関ホールに飾っていた花じゃないのかな。  私がシャワールームにぶち込まれている間、普段は使われない食堂を解放するために使用人たちは大変だったらしいことが窺われた。お疲れ様です、と内心で呟きながら私は正面に座る、けれど遠い推しを盗み見た。何だって長テーブルのお誕生日席にそれぞれ向かい合って座るのか私はいつも疑問だった。でも椅子が二脚用意されてカトラリーも置いてあっては其処に座るしかない。でもまぁ、離れてるおかげでテーブルマナーに自信のない私でも食事ができる、かもしれない。 「それじゃあ、始めようか」  食事の挨拶としてはどうなんだと思うけど推しの一言で料理長が自らワゴンを押して食堂へ入ってきた。ミリーを始め、初日に私へお茶を出してくれたメイドが給仕を行う。ミリーやアイリスは推し専門の世話係みたいなものだから、私とは遠い。少し心細い。  料理長が心配そうな目を私へ向けた。私は咄嗟に安心させようと思って微笑む。頬が震えているのが自分でも分かったけれど、大丈夫だ。死なない。苦しいかもしれないけど、死にはしない。  目の前にディナーの皿が並んでいく。いつも簡単な(まかな)いしか食べない私は、しかもそれで充分な私はこれが推しの食べている料理なのかと思って喉を鳴らした。ミリーが聞いたら怒るだろうが、離れているからきっと大丈夫だ。  でも正直、緊張していて何を食べたのかあまり覚えていない。料理長が喜ぶ言葉も笑顔も出せなかったと思う。推しが無言で食べるのに合わせるように私も同じようなペースでゆっくり食べる。遠くて分からないけれど同じ料理を食べているように見えた。私の皿にだけ毒が入っている可能性はあるけれど、今のところは何ともない。それに舌の上でとろけるソースや舌で充分に押しつぶせるまで柔らかく煮込まれた食材などは分かった。料理長の主人への心遣いが見える気がした。 「料理は美味しかった、エマ?」  ほとんど最後だろうと思う料理を食べ終わった推しがナフキンで口を拭きながら私に尋ねる。ずっと無言で声の出し方を忘れていた私は慌ててグラスの水を飲んで、はい、と答えた。 「料理長のお料理はいつも美味しいです」  そう、と推しは悪い顔で笑んだ。来る、と私は思う。既に仕込まれていたかこれからかは分からないが、毒が来る。  原作の推しは何か企むと悪い顔でよく笑った。柔らかく笑うなんてヒロインと会ってしばらく経ってからだ。最初のうちはヒロインさえ利己的に利用しようとして、自由気まま、自分勝手に振る舞っては自分の欲を満たそうとするのを隠しもしなかった。他の領主と話す時も興味の有無は傍目にも分かるほど明らかに示し、毒に関係なければ大抵は関心を示さない。いざ誰かが踏み込もうとすれば明確な拒否を示して毒を用いて撃退しようとする。だから初期の頃は悪い顔で笑う様子ばかり描かれている。 「最後のデザートは私が用意した。気に入ってもらえると良いんだけど」  言葉ばかりは優しげに、けれど微塵も私を労わる様子のない声にこそ毒が含まれていそうだった。推しが視線を向ければエドワードが銀のトレイを持って近づいてきた。クロッシュの被せられたそれは中身を見ることができない。目の前に置かれたそれが取られて私は目を瞠る。  小さな醤油皿程度の白い陶器の皿にころんと転がる赤い実がいくつか。木の実だ。柔らかそうな果肉は瑞々しいくらいに赤く、宝石のように綺麗だ。ナナカマドくらいの大きさの、小さな実。 「イチイの実だ。食べてくれるね」  推しの声に顔を上げた。人によっては下衆と捉えられてもおかしくないくらい悪い顔をした推しが、楽しそうに笑んでいた。
/25ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加