9 イチイの種子を摂る日

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9 イチイの種子を摂る日

 イチイの実、と私は口の中で繰り返す。夕方二人で見上げた庭の木。あれをイチイだと教えてくれたのは彼だ。枯れた葉にも、夏の終わりにつける赤い実の種子にも、毒があると。木は加工しやすく、楽器になることがあると。 「きみの目みたいに綺麗な実だ。食べて、感想を教えて」  甘く囁くように。その言葉こそが毒だと言うのに。  私は震える指で実を摘んだ。果肉だけ齧るなら問題ないのだろう。ビーズのように中央に穴が空いている。その奥に見える赤黒いものが、種子に違いない。  用意された実は十粒ほどだ。これもいくつ食べれば症状が出るのか、私には皆目見当もつかない。 「……汚しても、怒らないでくださいますか?」  私は静かにそれだけを推しに尋ねる。宝石のような紫の目を細めて、推しは頷いた。私は近くにいたメイドに端切れをいくつかと、古い、捨てても良いようなバケツを用意してもらうよう頼む。メイドは少し躊躇ったようだけど、ミリーに促されてすぐに準備に向かった。  メイドが戻るまで無言の時間が続いた。私はじっと皿の中のイチイの実を見つめる。見つめていたって爆発して消えるわけでも毒が抜けるわけでもない。  勿体無いな、と思う。料理長が折角作ってくれたお料理、ほとんど戻してしまうのではないか。せめて見ることのないように、メイドが戻ってから私はできる限りの人払いを頼んだ。推しはこれも頷いてくれた。部屋には推しとエドワード、ミリーと私だけが残った。なるべく配慮するけれど汚してしまうだろうから食堂の外には数人が消毒液を持って待機しているはずだ。 「怖いならやめても良いよ」  此の期に及んで推しが宣う。私は青ざめているだろう顔で推しを見た。まさか、と震えそうになる声で返す。 「これでやっと、働けるのに」  へぇ、と推しはまた目を細めた。遠い距離にいても推しの顔はよく見えた。どんなに悪い顔をしていても、推しの顔は今日も良い。この顔を目に焼き付けて現実に目覚めるならそれも悪くない、と私は思おうとした。 「種は齧った方が良いですか? それとも丸呑み?」 「噛み砕けば吸収は速い」 「分かりました」  私はミリーが何か言うより前に、意を決して赤くて丸い実を摘んで口に入れた。ぷにぷにした実は噛めばすぐに口の中で柔らかく崩れた。潰れた実から出た汁は甘く、少し粘り気がある。ほんのりと甘いそれは木の実らしい味がした。がり、と音を立てた種子は硬いが、奥歯で力を入れて噛めば砕けないこともない。梅干しの種を噛み砕いた時のような少し粉っぽい感じと、苦味が一瞬口の中に広がる。そのままでは緊張からか上手く飲み下せず、私はグラスの水を少し飲んで喉の奥に流し込んだ。  誰もが無言だった。推しは私の症状をよく観察しているように見えたし、ミリーは私よりも先に吐きそうな青い顔をしている。エドワードの表情は変わらないけれど、私を注視しているのはよく分かった。 「甘いですね。少しねばねばしてます。ジャムにしても良いんじゃないでしょうか。種は少し硬いですけど噛めないことはありません。割れた中は少し苦いです」  言われた通りに感想を伝え、私は二粒目を手に取る。ぱくり。もぐもぐ、がり、ごり、ごくん。甘くて苦い。同じ感想を伝え、早くも三つ目を口に入れた。種子にある毒はいつ私の体に回るだろう。私はいつこの夢から覚めてしまうだろう。 「何か話して、エマ」  推しが話しかけてくる。推しへの愛でも語ってやろうか、と思ったけど何だかお腹が痛くなってきて私は眉根を寄せた。冷や汗を我慢して、私は正確に症状を伝えるために口を開いた。声が小さくなっているのが自分でも分かる。推しが腰を上げて近づいてきた。 「胃、かな……ちょっと痛くなってきました。呂律は、回って……ますよね……? まだいけ、ます」  私は四粒目を取った。けれど噛み砕くには体に力を入れなくてはならない。腹痛を抱えながら噛み砕くに充分な力を入れるのは難しい。口の中で飴玉でも舐めるみたいにコロコロと転がしながら、私は困ったように推しを見た。推しは真剣な目で私を観察している。甚振って楽しんでいるような様子はない。流石に其処まで外道ではないようだ。 「ごめんなさい……種、飲んでも、良いですか……? 砕くまで力が、入らな……」  良いよ、と推しが言う。私は安堵から頬を緩めた。飲み下すまでに水の力を借りる。少しえずいて咄嗟に手で口を覆った。クロスの上に吐くわけにはいかないと思って、すぐ側に置いていたバケツの上に屈んだ。ミリーが思わずといった様子で近くまで駆け寄ってくる音がした。途中で止まったのは止められたか、自分で思い止まったかしたのだろう。何とか吐かずに済んだ私はけれど体を起こすには苦しくて、片手を伸ばしてテーブルの上の実を探した。  推しが手を伸ばして皿を近づけてくれる。お礼を言って私は皿の上を転がる実を掴んだ。三つ取れた。掌からひとつずつ摘んで口に入れる。五粒目。推しが私の飲んでいたグラスを目の前の床に置いてくれた。悪魔のような優しさだった。  緊張とは違う震えが手に起こり始めていて水を飲むのも苦労した。周りにぼたぼたと落として床もメイド服の裾も濡らしてしまう。耳に聞こえる呼吸は浅く、それが自分の呼吸だと気付いたのは水を飲んでその音が一時的に聞こえなくなった時だ。息が苦しい。  六粒目を何とか取ったところで急速な吐き気がお腹からせり上がってきて私はバケツの中に顔を突っ込んだ。ミリーが髪を綺麗に纏めてくれていなければ髪にも吐瀉物がついてしまっただろう。さっき食べたものが意に反して口を通して外へ出て行ってしまう。喉を酸っぱい胃液と一緒に食べ物が逆流していく感覚にただ耐えるしかなかった。  体が異物を排除しようと戦っている。小さな赤い実を五粒食べただけなのに凄い力だ、と私は思う。けれど吐き切ってしまえば多少は楽になるかもしれない。  びしゃびしゃと嘔吐する汚い音が響く。バケツに顔を突っ込んでいる私の鼻にはキツい匂いも届いていて、その匂いだけでまた嘔気を誘発しそうだった。  私の脳裏を原作の一コマが過ぎる。推しが同じように苦しみながら毒を体内に取り入れている描写だ。今よりもずっと幼い推しは死ぬかもしれない恐怖に怯えながら、それでも摂らねば毒以外の理由で殺される可能性に気づいていて、我慢していた。これはきっと、追体験だ。幸いにも私は特殊設定で毒による死は迎えない。何度だって推しと同じ体験ができる。  裏切りや陰謀と隣り合わせのこの世界で、推しは生き抜いてきた。他のイケメンたちもそれぞれ辛い過去を持っているけれど、私は推しの置かれた環境に涙した。だから救われてほしいと思っていた。なのにあんな最期を迎えて、怒りを覚えた。 「はぁ……はぁ……」  胃の中にあったものを全部出したのではと思うほど長い嘔吐が終わって私は荒い息をつく。肩が上下するほど全身で呼吸をしているのが自分でも分かる。手を伸ばして取ったグラスの中身は先ほど零してしまったせいか、ほとんど残っていない。それでも口の中が気持ち悪くて水を含んだ。それさえ刺激なのか数滴、喉の奥を流れていった水にも反応し、私は再びバケツに顔を埋める。行儀が悪いのは承知でメイド服の袖で口を拭った。  ふと顔を上げると意外にも近くで私を観察する推しと目が合った。綺麗な宝石みたいな紫の瞳。思わず私が笑いかけると推しは驚いたようにその目を見開いた。そりゃまぁ、げろげろに吐いてる人に笑いかけられるなんて気持ち悪いに決まっている。失敗した。 「まだ、いけます」  ほとんど呻き声みたいになっていたけど、私はそう言ったつもりだった。嘘みたいにお腹は痛いし正直もう良いって止めてくれないかと思ってはいるけれど、止められない限りは私は毒を摂取する。推しが、そうしていたように。  大丈夫。私は自分に言い聞かせる。ただの赤い実。赤黒い種子。あなたもこれを食べたの? 同じように吐いて、震えて、お腹を痛くしたの? そうしないと、生きられなかったから。  そうまでして生きてきた推しが救われない未来なんて、あって良いはずがない。そんな未来は私が書き換えてみせる。だから。  自分の気持ちを、ヒロインに言えないままいなくならないで。愛していた、なんて過去形にしないで。どうか、生きて。  手の中で握ってべたべたになっていた六粒目を私は口に運ぶ。もう指先は震えて摘むなんて芸当だったから、はしたないと思いながら掌を舐めた。舌も震えていたけれど、何とか出して種子を掬う。口の中に迎え入れて飴のように転がした歯の裏に当たる感触を最後に、私の意識は其処で途切れた。
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