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 ツアーバスが発車すると、添乗員のササキという若い男がマイクを持って挨拶をした。  バスは満員であった。ほとんどが初老の夫婦のようである。30代の俺たちはかなりの若手だ。 「皆さん、富士登山は初めてですか? あーほとんどの方が初めてですね。あのー、今から僕言っておきますね。ハッキリ言ってめちゃくちゃしんどいっすよ。覚悟しといてくださいね」  前方の客が笑い声をあげる。菜実は聞いていないで終始はしゃいでいる。 「今ね、シルバー世代に登山がブームなんだって」  持参した大福を食べながら菜実は目を細める。 「だから若手がぐんぐん引っ張って行かなきゃね」  運動が得意ではない菜実は今日まで毎日のように張り切ってジョギングをして、その小柄な身体を鍛えていたのだった。  途中寄ったサービスエリアで山菜そばを食べる。ちゃんとエネルギー補給しなきゃと菜実は主張し、高山病対策にはタンパク質が大事だから生卵いれてね、とどこかで仕入れたらしい情報を披露した。  たまたまテーブルが一緒になった添乗員のササキは、ずっと富士山ツアーの添乗業務は貧乏くじだと嘆いていた。 「僕、昨晩はK市の花火大会の添乗だったんですよ。夜中帰ってきて、今日は富士登山じゃないですか。僕絶対死にますよ」  どうでもいいことをササキはぐだぐだと話す。  あははと適当に相槌を打って菜実があしらっていた。  そろそろ時間だとササキはそそくさと席を立つ。時計を確認した俺も、のんびり蕎麦をすする菜実を急かした。  バスに戻る途中お手洗いに行くからと一旦別れた菜実が、ぶらぶら歩く俺の腕を後ろから駆け寄ってつかんできた。 「ちょっと、大変あなた。柿崎さんがいた」  最初何を言っているのか分からなかったが、かがんだ菜実の視線の先に、寄り添うように歩く派手な登山着の若夫婦の後ろ姿が見える。確かに柿崎夫婦である。ふたりは仲良くツアーバスに乗り込んだ。 「まさかバス一緒だったのか。全然気づかなかった」 「私もよ。さっきトイレで声掛けられて心臓止まるかと思った」 「なんてこった」 「どうしよう、あっちも富士山で対抗してきた。もう絶対負けられないから、私たちの方が先に頂上に行こう」  どうでもいいマウント合戦だ。こともあろうに同じツアーとは。ただただ憂鬱であった。
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