1/1
前へ
/10ページ
次へ

 バスに乗り込むと最後列の柿崎夫婦が挨拶してきた。旦那はがっしりとした体を揺らして満面の笑みである。俺は今気づいたようなフリをして会釈を返した。  席に着いてから菜実はいつの間に買ったのか、カップラーメンとポテトチップスの袋をザックに入れている。登山のおやつ、と嬉しそうに言った。  バスが出ると、添乗員のササキはマイクでこれからの行程を伝える。 「えー、ということでバスは午後2時前には五合目に到着いたします。登山を控えて皆さま今のうちにゆっくりと休息をとって頂きますので、私の案内も到着まで失礼させていただきます」  客への配慮と見せて、おそらく彼自身がゆっくり寝たいのだろう。顔が見え見えであった。  バスは高速を降り、やがて五合目に向かう有料道路の富士スバルラインに入る。目を閉じてしばしの休息を試みるが、菜実が腕をつかんではしゃぐので、結局眠れずにバスは終点の五合目に到着する。 「それでは午後3時集合となります。あと1時間ほどありますが、ここ五合目でも標高は2千メートルを越えています。高地に身体を慣らす意味もありますから、ゆっくりと各自出発の準備をなさって下さい」  ツアー客はざっと20数名いるようであった。五合目の広大な駐車場には同じようなバスがずらりと並び、かなりの数の登山客でごったかえしている。 「あなた、レストハウスでお茶しましょう」  ササキの話を無視して菜実は観光気分だった。俺たちの脇を柿崎夫婦が笑って通り過ぎ「あら、ごきげんよう」と声をかけていく。  俺は菜実を引っ張って指定されたレストハウスの控え室へ赴いた。柿崎夫婦はじめ皆が粛々と登山の準備にいそしんでいる。その脇のテーブルで、わあと歓声を上げてパンパンに膨らんだポテトチップスの袋にご満悦の菜実を促して我々も身支度の準備を行う。  午後3時の集合時間となった。吉田ルートと呼ばれる登山道の出発地点では、山本という老齢のガイドが待っていた。真っ黒に日焼けした逞しい山男である。  彼を先頭に、いざ登山スタートとなった。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

21人が本棚に入れています
本棚に追加