さよならトラディショナル

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「シェイナー、ちゃんと食べてるかなぁ」  上気した頬、潤んだ目で、華恵は熱く湿った溜息をつく。  私は口を開きかけてクロワッサンを押し込みごまかした。香ばしく甘く口いっぱいに香が広がる。 「朝ごはんだったっけ」  千津の問に華恵は小さく頷いた。メキシコシティ・エクソリンピック、トラディショナル陸上女子100m。最初にゴールに飛び込んだシェイナー・ワトソン選手はドーピング検査で陽性となり、金メダルを剥奪された。朝食にスタンダード選手向けのメニューが混じっていたためだった。  健常者を対象としたトラディショナル部門に対し、障害者を含むあらゆる人々を対象にして性別の枠さえ超える形でパラリンピックを再編したスタンダード部門では、恒常的な薬物使用、遺伝子治療、ホルモン療法、車椅子や義肢など身体補助具、各種矯正アタッチメントも許されている。食材への規定も当然緩い。たった一品でトラディショナル部門の規定を超えても不思議はなかった。  ワトソン選手のメダル剥奪により、4位入賞で終わったはずの相田華恵は繰り上げ銅メダルとなった。言うなれば、ワトソン選手の失格のおかげで華恵は最後のメダリストの一人に名を連ねることとなったのだ。4年前の出場断念を経てのメダル獲得に日本中が沸き立ったが、当の華恵の心中は複雑だろう。喜べば良いのか悔しがれば良いのか。トラディショナルの世界は狭い。各国選手はライバルといえど仲間でもあったはずだ。  馬鹿ばっかり。私は言葉をクロワッサンと共にゆっくり咀嚼し飲み込んだ。ワトソン選手の訃報を速報で聞いていた。二人はきっとまだ知らない。 「事故みたいなものなのに。酷いよね」  華恵は溜息のように呟いた。私はナイフをソーセージにゆっくり沈める。一口大に分けていく。丁寧に。そして吐き出すように言葉にする。
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