さよならトラディショナル

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 たっぷりのクロテッドクリームをこんがり焼き色のついたバターロールに大胆に載せて、華恵は小さな顔を全部口にしたかのようにかぶりつく。  無理している様子はない。私はホッとしながらそれを横目にカプチーノを口に運ぶ。芳醇な香にフォームドミルクの柔らかさ。エスプレッソの仄かな苦味が効いている。一流ホテルの朝食ビュッフェ。七年ぶりだが味は変わらず素晴らしい。 「ここ、乳製品がね、特に美味しいんだって!」  千津は180cmの長身を猫背にまるめて、分厚い縁のメガネ越しにチラリと私へ視線をよこし、華恵へと笑顔を向ける。手元に広げたビタミン剤、ホルモン調整剤、糖吸収調整剤、零れるほどの錠剤をのんびり水で飲み込んでいく。  ほひひい。華恵は言葉にならない声を漏らす。細い肩をふるわせて小さな目を見開いている。ほひひい。繰り返す。さもありなん。私は思う。  華恵は旧来のオリンピックの流れを組むエクソリンピック(Ex-Olympic)、トラディショナル部門の選手だった。ドーピング規定が厳しく市販品を口に出来ない。今のご時世、乳牛の飼料に成長促進目的のホルモン剤くらい入れられている。そこから生産される牛乳は禁止薬物の塊だ。トラディショナル向けに飼育されている牛は限られている。クリームなど生クリームが精々だろう。
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