番外

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番外

 私、マリセラ・シルバ・アレハンドロは、人間の国の第二皇女である。第一皇女である実姉のカルロータは、人と竜の戦争の休戦協定の人質として、竜の国の王族に嫁いだ。いかなる困難を前にしても決して目を背けることのなかった姉は私にとって眩しすぎるほどの太陽であり、目指すべき存在であった。そんな姉の存在は、誰にとっても輝かしいものであったのだろう、姉がいなくなってからこちら、城内の空気がどこか澱んでいる。  そんな鬱屈とした空間を歩いていると、ひそひそと話し声が聞こえてきた。ただでさえ戦争によって人々の心は荒んでいる。この類は、だいたいよくないことだと、私は経験で知っていた。ことによっては諫めねばなるまいと、耳を澄ませる。どうやら、話し声は新たに兄のもとに嫁いだ――姉と引き換えに来た竜の娘の部屋からだった。 「尻尾くらいなら命に問題はないだろう」 「肉は旨いし、鱗も骨も何かと使える。くそ、これを狩れなくなったのは辛いぞ」 「まったくだ。くそ、戦争を止めるためとはいえ、これだけは惜しい」  気づけば、私は音を立てて扉を開けていた。中にいた三人と一頭は、驚いたようにこちにを向く。  三人の姿は知っている。近衛兵の中に顔を見たことがある。そして、もう一頭――竜の方は、私は初めて見た。戦場に出たこともなく、目にする「竜」とはみな資源として解体されたあとの姿。絵では見たことがあるけれど、本物は初めて見た。  僅かな光源できらきらと光る鱗。水晶のような瞳。拘束された手足と、塞がれた口には鋭い牙や爪があるのだろう。  私はそんな竜の――彼女の姿に一瞬見惚れ、それから即座に三人を見た。その手には、近衛兵たちが携帯しているはずのない武器――鉈が握られていた。 「あなたたち、ここで何をされているので?」 「ひ、姫様……」 「……確かに、捕虜である彼女へ危害を加えることは、協定上禁止されてはいません。ですが、禁止されていないからと、無抵抗の者を虐待することは、近衛兵にあるまじき行いなのではありませんか?」 「しかし……」 「しかしも何もありません。それでは人が精神でもまた、竜に劣っていると示しているようなもの。出て行きなさい」  申し訳ありません、と出て行く姿に「まったく」と溜め息をつく。もとより兄が彼女を放置しているのが悪いのだが、兄には別に人の妻がいる以上、それは致し方ないことだろう。ほかに男の兄弟かいれば良かったが、私の下には誰もおらず、私の上にも兄ひとりなのだ。 「申し訳ありません、我が兵がご無礼を」  ここにいるということは、彼女は竜の世界においてそれなりに高貴な身分のはず。非礼を詫びてから、彼女が拘束されていたことを思い出した。手足の拘束を外すのはさすがに怖いので、口だけを外す。端から覗いた鋭い牙に、思わず身を引きそうになったが、なんとか耐えた。姉は竜もまた理性があり言葉を交わすのだと言っていたから、それを信じた。  姉の言った通り、拘束具を外す間、そして外してからも、彼女は私に何かをしようとする素振りは見せなかった。代わりに、水晶のような目がこちらをじっと見ていた。 「……ありがとう」  竜は言葉を解すのだという。しかし、話にしか聞いたことのない私は、彼女が放った言葉に驚いてしまった。 「は、はな……」  そんな私に、彼女は不快に思ったのだろう。 「私たちも言葉を解します」  きつい声音で放たれる言葉に、私は「そ、そうですよね、ごめんなさい」と委縮してしまう。 「その、ごめんなさい。私、生きている姿は初めて見たもので……」  そうして続けた言葉に、私は慌てて口を閉じる。けれど、相手はそんな私をじっと見て、それから笑った……ように見えた。 「そうですか、私も、生きた人間はこちらに来て初めて見ました」 「え」  彼女の言葉に顔を上げる。彼女は首を擡げて遠くを見ていた 「彼らが言っていました。私たちの肉は旨いと」 「そ、そのことは、後で叱っておきます」 「いいえ、気にしてはいません。……いえ、さすがに気にはしますが。けれど、私たちもまた、同じことをあなた方に抱いていたのは事実です」  彼女が再びこちらを見る。そこに殺意も何もないとわかっていても、思わず自分が食べられてしまうのではないかと、身を強張らせる。そんな私に、彼女はやはり笑った……ように見えた。 「怖がるのも無理ありません。私も、先はとても怖かった」 「……あなたは」 「私は、竜の国より嫁いできた者です。名はアスセナ。あなたに助けていただいたこと、感謝いたします」  拘束された体で、不自由そうに礼をする彼女に、私も慌てて礼を返す。 「私は、この国の第二皇女、マリセラ・シルバ・アレハンドロと申します」 「第二……つまりはあなたの姉が」 「はい、竜の国へ」 「ならば、私の兄のもとへ嫁いだのでしょう。……どうぞご安心ください。兄は、この協定の意義を理解しております。個の感情によって、あなたの姉を傷つけることはないと誓います」  私は、彼女を、アスセナを見上げた。気高い瞳。この目と同じ目を私は知っている。誰よりも憧れ、何よりも目指した姉と同じ、強いまなざし。彼女の言葉に偽りはない、そう思わせるだけの力を持っていた。 「……では、私も誓います」  この世界において、竜と人は争うもの。私は生まれてこの方、ずっとそう教えられてきたし、その環境下で生きてきた。  だからこそ、目の前にいるこの竜に、負けるわけにはいかない。 「この城内……いえ、国内において、あなたには一切傷つけはいたしません」  私はそう言って、アスセナを見た。彼女の目を見た。今や、彼女の牙も、爪も、私にとっては脅威ではない。彼女の高潔な瞳こそが、私の競うべき相手であった。私が恐れるべき敵であった。 だからこそ、私はアスセナを見た。睨むのではなく、ただ、見た。  それに、彼女もまた何も言わず、ただ、その澱みないまなざしを私に返した。
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