88keys,10fingers, No Problem

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88keys,10fingers, No Problem

入り口には「周防透流の世界」という看板が立っていた。ドアを開けると、ぽってりとしたオイルペイント独特の匂いがした。 受付にはあの青年がいた。 「先生すぐ戻ると思うんで…ご覧になってて下さい。」 青年は私を覚えていたようで、パンフレットをくれた。 広い館内には、誰もいなかった。肖像画や静物、風景など色々な種類のものがあった。 柔らかなタッチで写真のように描かれているものもあれば、力強い色合いで描かれているものもあった。美しい少女、武骨な老人、隆々とした筋肉を持つ男性のヌード…。描かれている人物も様々だったがどれも素朴で温かい印象を受けた。 通路をゆっくり歩くとコツコツと靴の音が響いた。 大きな美しい海辺の絵が目に留まった。太陽の光が強く、浜辺には真っ白なワンピースを着た女性がつばの広い大きな帽子を被り、そっと手でそれを押さえていた。黒いウェーブのかかった髪の毛は、海風に揺れているようだった。 …どこの海だろう。 他の絵とはどこか違う雰囲気があった。 「この女性は僕の母です。」 振り返ると、小柄な男性が立っていた。そうなんですか…少し寂しそうに見えますねと私が言うと、周防は私の顔をじっと見つめた。 「母のイメージはいつも寂しそうだったんです。憂いがあると言うか。もうずいぶん前に死にましたが…。」 私は何も言えずに絵を眺めた。 「先生をお待ちなんですよね。僕、周防って言います。」 私はそっと頭を下げた。 全てあなたが描いた絵ですか?フロアを見渡した。 「はい…ずっと描き溜めていたものです。先生の力添えで、仕事を少し貰えるようになって、やっとここまで来れました。」 食べていくのは、ギリギリですけれど…と言って爽やかな笑顔を浮かべた。 何か仕事があったら下さいと言って名刺を出した。私もです…名刺はないんですが、ピアノを弾いてます。 と言って、電話番号をメモに書いて渡した。先生がドアから入ってくるのが見えた。 「お待たせしました。では、閉めましょう。」 先生はにこにこと笑っていた。 「じゃあ僕は…失礼します。」 周防はさっさと帰って行った。 タクシーが店の前に着いた。支払いをしようとしたが、先生は受け取らなかった。 「僕と一緒に居る時には心配しないでください。」 先生は優しく言った。お店に入ると小さな個室に案内された。飲み物は?と聞かれたので温かいお茶をお願いした。 「今日はお酒じゃなくて良いんですか?」 先生はワインを注文しグラスを2個を頼み、念のため…と笑った。 「コースでお願いはしていますが、何かお好きなものがあれば、注文してください。」 コースで十分だった。 自分のグラスにワインを注ぎながら私に聞いた。 「ピアノは…まだ時々弾いているのですか。」 前菜は、ピータン、榎ときゅうりの和え物と次々に料理が運ばれてきた。 「ええ…大学に居た頃に比べれば全然ですけれど。」 先生は、ぽつりぽつりと質問をした。いつの間にか質問に私が答えてばかりいた。先生に聞き返すタイミングが難しかった。 「あの…先生。この間は、申し訳ありませんでした。お客さんに飲まされてしまって。」 「ちょっと驚きました…けれど、楽しかったです。」 …楽しかった? 先生は何かを思い出す様に微笑んだ。私がじっと見つめていると、いえ何でもありませんとワインを少し口にした。 「本当に…すみません。」 私は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。ちらりと私を見て、先生は優しく微笑んだけれど、それ以上は何も言わなかった。 「あ…それから…周防さんに絵のモデルにならないかと言われました。」 先生は再び私を見つめた。 「あの…考えておきますとお伝えはしたんですけれど。」 本気にして良いのかも判らなかったし、どのように対応してよいのかもわからなかった。 「もし、お嫌でしたら断って下さって構いません。絵描きは断られることには慣れてますから。」 小籠包、薬膳スッポンスープ、干しアワビのステーキ。 先生がワインを注ぎ私はそれを飲み干した。白酒は飲んだことがありますか?と言って、チェイサーと一緒に注文した。 身体は温まりますが、度数が強いので気を付けてと先生が言った。独特の香りが私を包んだ。 …確かに美味しい。 野菜炒め、伊勢海老の雑炊。 身体がすぐにポカポカと温まり、気分が良くなってきた。 「先生は…年末は、どなたかと過ごす予定はありますか?」 多分今なら聞きたいことが聞ける気がする。 でも…聞いたら今度こそ決定的な答えを出されそうでそれが怖かった。 「特にありませんので、クリスマスから年明けまで家に帰ろうかと思っています。」 内心誰かと出かける予定があると言われず、ほっとした。そういえば先生は、ホテル暮らしだと言って居た。 聞くと先生の家は熱海にあり、通勤できなくも無いが、面倒になってしまい、今は1-2週間に一度帰る程度だと言った。 先生は顔色ひとつ変えずに、2杯目の白酒を飲んだ。 「おひとりで?」 マンゴーのアイスクリームを一口食べた。 ほろ酔いでも私が聞けるのはギリギリこれくらいまでだった。 「はい…おひとりですよ。」 先生は笑った。 あなたは何か予定があるんですかと先生は聞いた。毎年、レストランやパブ、老人ホームなどでピアノを弾いていることを話した。 「それは素敵ですね。」 窓の外にはちらほら雪が舞っていた。 「先生…雪が降ってきましたよ。」 「どうりで寒いわけですね。本降りになる前に帰りましょう。」 先生は支払いは気にせずにと言うが、 毎回ご馳走になるのは心苦しかった。 「私からお誘い出来なくなります。」 先生に続いて、 外に出ると道は斑に白くなりつつあった。 「それに…誘って頂けないのかと思いました。」 夕方のラッシュの時間もとうに過ぎて、 歩いている人は疎らだった。 「え…どうしてそう思ったんですか?」 先生は驚いた顔をした。 「だって…。」 …あんな醜態を晒してしまったら、 普通の男の人は嫌よね。 その先が言えずに、俯いてしまった。今回誘って貰って謝る機会を頂いただけで、ラッキーだと思わなくっちゃ。 「でしたら…今度から僕が誘うことにしましょう。」 この言葉の真意を見つけ出せず、困惑した。 …今度っていつでしょう?それはデートと受け取って良いのでしょうか? 思い浮かんだことは、聞けなかった。だけど、それでも誘われたことがとても嬉しかった。 師走はイベントが増える。パーティー・コンパニオンやモデルの仕事に比べたら、ピアノの仕事は、 たいしたお金にはならない。 今年は珍しく、クリスマス前の早い時期に依頼された。 静かな曲を…とだけ言われた。 お店の雰囲気や客層で選曲や組み合わせなどを自分で考え、古い楽譜を戸棚から引っ張り出した。 洋楽やJ-popなどの今年の流行を調べた。コンパニオンのバイト前に、楽器店に寄って、素敵なアレンジを見つけたりすることが楽しかった。 …瑛二が言ってたノクターン。 埃をかぶった段ボール箱を天袋から引きずりだした。一番古いノートには母の字で書かれていた。3冊目辺りからへたくそな字で「れんしゅうノート」になった。この辺りからは、何となく覚えている。毎週の課題、注意する点などを書きなぐっていた。 あっという間にその日が来てしまった。ドキドキしながら言われた通り、店の裏口から入った。 ひとりの男性がコートを脱ぎマネージャーと話をしているところだった。マネージャーはちらりと私の顔を見た。 「あ…ごめん…君は今日はいいや…来てくれたのに悪いね。」 あっさり断わられた。スタッフが後から追いかけてきて、約束した全額ではないけれど、交通費ぐらいにはなるだろうからと封筒をくれた。 マネージャーの手違い。演奏者のダブルブッキング。 …こんなことは慣れっこだ。ピアノを弾ける人は沢山いるし、私じゃ無くても良いことはわかっている。 帰り道は、長くとても寒く感じた。マンションに戻り、玄関でパンプスを脱いた。廊下に大きなバッグを投げ出すと、冷たい床の上にスコアがカードの手札のように広がった。 今の私にはそれを拾い集める気力も無かった。昼間 天袋から出した練習ノートが目に留まった。最後のノートの表紙には、 ――― 88 keys,10fingers, No Problem 毎日ピアノばかり弾いて、練習すればする分だけ上手くなると信じ、自信に満ち溢れていた。 …寝てしまえば、どうせまた新しい朝が来る くすんだ気持ちは私の中にインク染みのようにジワジワと広がっていき、行き場所を失い気が付くと頬を伝って零れ落ちていた。 店の入り口に待っていると、リョウが出てきた。リョウは、ほのかの友人でモデルをしていた。ゲイバーのマネジャーとして働き、年末突然辞めてしまった、ピアニストの代わりを探しているとほのかに紹介された。 「こんばんは…レナです。宜しくお…。」 挨拶が終わる前に、リョウは私の恰好を見て呆れた。 「おいおい…その恰好…」 地味なコートの下は、黒の地味なスーツだった。私は慌てて着替えるドレスは持ってきていることを伝えた。じゃあ裏口から入ってと、中へ案内された。 …未知の世界。 「着替えや化粧はここでして。」 案内された所は、物が乱雑に置かれていた物置だ。着替えたら、ホールに出て何曲か弾いてとリョウが言った。 「クリスマスソングとか弾ける?」 「はい、何曲か…」 いそいそとバッグから楽譜を出した。この間のジャズの店の件は暫く凹んだが、ここで使いまわしが出来たので、結果オーライだった。 「オッケーじゃあ着替えたら、ホールに出て弾いて。」 支度をしていると、 私よりも背が20センチ程高い女性が入って来た。 …身長…先生ぐらいかな? 「あんたが新しいピアニスト?」 見上げるように大柄な女性の声はハスキーだ。その言葉にドキッとした。はいと答えると、ふーんと言って真っ赤なマネキュアをした指で煙草を燻らせた。 化粧を済ませたが、彼女の前でドレスに着替えるのを躊躇していた。 「ああ…大丈夫。気にしないで。女に興味ないから。」 画面から目を離さずに言った。 ランジェリー姿になり、ドレスに着替えた。 楽譜を持って部屋を出ようとした時彼女が言った。 「ちょっと あんたバースデーソングは弾ける?」 「…はい弾けます。」 「今日お客でお誕生日の人が居るんだけど、ケーキを出すタイミングで弾いて。」 「…分かりました。」 その女性は私が着替えたドレス姿を上から下まで舐めるようにみた。 「カッコだけは…まあまあってトコね。」 ピアノはアップライトのベビシュタインで、薄暗いフロアの隅にひっそりと置かれていた。小さな楽譜用ライトが付いていた。 ライトを付けると埃が焼けるような匂いがして煙がでて慌てた。椅子の高さを調整すると、ギシギシと酷い音がした。白鍵は、よく触れる部分が淡いべっこう色に変わっており、このピアノの歴史を感じさせた。 弾き始めると、店内は一瞬しんとしたが、再び話し声で騒がしくなった。 …Middle C周辺のピッチが少し低い…かも 洋楽はワ●やジャスティ●・ビーバー、マラ●ア・キャリーなどの有名なクリスマス・ソングを弾いた。 ウェイターが私に近寄り、この曲が終わったら、バースデーソングを弾いてくださいと耳打ちしたので、私は分かりましたと答えた。 ボン・ジョ●の Blue ●hristmasが終わるとフロアの照明が落ち、ケーキが運ばれてくるのが見えた。 その様子を見ながらテーブルに着いた時に曲が終わる様に合わせた。 スタッフや他の客からおめでとう~と言葉をかけられ、客は少し照れながら、嬉しそうにしていた。 私はピアノを弾き続け、途中で先ほどの背の高い女性が飲み物を持ってきてくれた。 「客が喜んでくれて良かった。ありがと。」 にこりともせず、不愛想に礼を言った。 気が付けば、お店の閉店までピアノを弾き続けていた。頭が興奮していて、アドレナリンが出続けているような気がした。 スタッフが掃除をするのを眺めていた。 リョウがやって来た。 「最初のあの姿には、正直驚いたけど、ほのかが“化ける“って言ってたのはマジだった。」 リョウは笑っていた。 …褒められているのか微妙。 「ピアノを弾いてると3割増しぐらいに見えたぞ。年明けから、うちに来てくれる?」 久しぶりにピアノで見つけた長期バイト。年末一番嬉しい出来事だった。 「メリークリスマス。早いけど。僕からのクリスマスプレゼント。」 リョウは茶封筒をくれた。たった数時間なのに、結構な額だった。
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