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二十歳の夏。彼女を海で亡くした。
女友だちと海へ遊びにいき、その先で溺れたのだというが、実際はよくわからない。
僕は病院で彼女の遺体と対面した。だれも口にしなかったが、彼女の足に手の形をした黒い痣があった。
生前には、彼女は冗談交じりにこう言っていた。
『私ね、海と相性が悪いみたいでね。修学旅行の時とか、海を見るたびに波の間から白い手が見えるの。きっと呼ばれているの』
どこに、と聞くと、「海の底」とだけ彼女が答えたのが妙に印象に残っている。
彼女は海に行くのを避けていたはずだった。彼女の訃報を聞いた時は目を疑ったものだが、友人たちの話では本人が海に行きたいと言い出したらしい。妙にはしゃいだ様子だったが、それ以外は至って普通だったという。
僕の目にも彼女は普通の様子に見えたのだ。海に行く前日もいつも通り、夜に電話して、たわいない話をしていたぐらいだ。なのに彼女は死んだ。
彼女は大学の同級生で、同じ学部にいた。顔を合わせるうちに話すようになり、付き合うことになったのだ。ショートカットで明るくてかわいい彼女のことが好きだった。
ただ、ふとした時、彼女には陰がさすことがあった。決まって、大好きだったお姉さんを亡くした話をする時だ。
『いつか、帰ろうと思ってる。姉さんがひとりで寂しいだろうから』
お姉さんは二十歳の夏に――奇しくも彼女自身が死んだ年齢でもある――行方不明となった。大学での生活も、プライベートもとりたてて何かトラブルがあったわけではない。おおかた何かの事件に巻き込まれたのだろうと思われている。
彼女の家族もその後、地元の村を離れた。そのいきさつもあったせいか、彼女はふるさとを恋しがっていたのだ。
山に囲まれた、静かなところだと彼女は語っていた。
『そうなんだ。俺も行ってみたいな、葵の生まれたところならさ』
『そうだね。いつか、行こうね。一緒に』
たわいもない約束もした。彼女の地元に一緒に行こうと……守れなかったが。
ぼくは今、二十六歳。表向きは普通に企業に就職し、傍目には何の不自由もなく暮らしている。
けれど――。
『金森悠太さんですか? 彼女さんからのお手紙が砂浜に落ちていましたよ。彼女さんのお名前は……桐坂、葵、さんですか?』
電話越しに聞こえた、見知らぬ男性の声。
瞬間、当時のことがフラッシュバックして、まだ大学生だった二十歳の僕が蘇ってきた。うだるような暑さの日に、海辺の病院へ走ったことや、最後に見た彼女の笑顔。ばいばい、と駅前で振り返された手を。
それから僕はどうにも夢見心地だったが、その場で上司に数日の有休を申請し、着の身着のまま例の海岸へ向かうワンマン電車に飛び乗った。
葵が死んだ海岸は、何事もなかったようにちらほら海水浴客がいた。人間の記憶というものはあっという間に風化してしまうものだなと思った。
電話で会うことを約束した男性は、手紙の入った瓶を持って立っていた。地元の高校生で、放課後にはたまに海で泳いでいるんだそうだ。
彼の話によると。
つい昨日も海に入っていたところ、帰りの海岸で瓶を見つけたそうだ。透明な瓶には数枚の紙が入っている。中身を見れば、恋人と家族への手紙、そして拾った人には届けてほしいと書いた紙。連絡先はぼくのものしかなかったそうで、ためしに連絡したら繋がったからびっくりしたと彼は言った。
「これも入ってましたよ」
くしゃくしゃの紙に包まれていたきれいな桜貝を見せてくれた。欠けている部分がひとつもなく、つやつやした光沢を放っている。
「こんなこともあるもんなんですね。これを書いた彼女さんは今、どうされているんですか」
「いなくなったんだよ。この海で」
僕がありのままの真実を伝えると、彼は気まずくなったようだ。軽く頭を下げて帰っていった。
ひとりになった僕はそっと手紙を開いてみた。
――悠太へ。
いつもありがとう。付き合うことができて幸せ。これからも一緒にいようね。
短いけれど、丁寧に書かれた字。懐かしい、彼女の字だった。
そうか。彼女はずっと一緒にいたいと思っていてくれたのだ。それだけに、胸がつまる思いがした。
もう一枚は、家族の――亡くなった姉への手紙だ。こちらは長かった。
――姉さんへ。
私は今、いなくなった姉さんと同じ年です。正直に言えば、怖いです。私と姉さんは昔からよく似ているね、と言われたから。容姿も、興味も、選んだ大学もほとんど同じです。結果的に私は、姉さんの人生を辿るように生きています。……私にもこの夏、何かが起きるかもしれないと恐れています。
近ごろ、心の中の何かが空っぽになっていると感じるようになりました(もしかしたら、もっと前からかもしれませんが)。魂というものがあるのなら、それをどこかに落としてしまったのでしょう。ぽっかり空いた空洞に「何か」が入ってこようとしているのがわかります。きっとよくないものなんでしょう。姉さんもこんな気持ちだったのでしょうか。
でも、私は……何があったとしても必ず戻ってきます。姉さんが消えたあの村の……あの山へ行き、姉さんを探し出したいです。待っていてください。必ず、帰ります。
彼女が僕の連絡先しか書かなかったのは、もうひとつの宛先の人物がもういなかったからだった。しかし、手紙の内容が不吉だった。これが真実なら、何かの予感を彼女が感じていたことになるのだ。
僕は彼女の遺品を彼女の両親に見せるべきか悩んだ。娘をふたりもなくして、意気消沈している彼女の御両親にこれ以上の心労をかけたくないのだ。
一晩よく考えようと、近くの民宿に宿を取った。平日だからか、なんとか飛び入りでも宿泊できた。
その夜。夢に彼女が出て来た。僕の枕元に座り、「帰らなきゃ、帰らなきゃ」と彼女が泣いていた。どこに、と問えば、彼女はぴたりと泣き止んで、北を指さした。
『――あの村へ』
寝汗びっしょりかいて飛び起きた僕は、すでにやるべきことがわかっていた。
僕は彼女の両親と連絡をとり、彼女のふるさとの村の場所を聞きだした。そこは山々に囲まれたすり鉢の底にある村だった。ぽつぽつと家が点在するものの、過疎化が急激に進んでいるような鄙びた村だ。そこへ行くにはレンタカーを借りるか、バスに乗るしかない。
彼女の御両親はもう村には住んでいないため、昔から懇意だった家を紹介してもらった。彼女の墓へ案内してもらえるという。
僕は彼女のことがショックで、当時、墓参りすら行けていなかった。
半袖のワイシャツ姿で、白い百合の花束を持ち、レンタカーを借りた。山間をぐねぐねと曲がる道を幾度となく越えながら、やっとの思いで村に辿り着いたら、午後三時だった。
住所のメモを頼りに、紹介先の家に行く。その家は彼女の親類に当たる家で、品の良い老女がひとりで住んでいた。老女は汗だくの僕を見るや、冷たい麦茶を出し、お腹が空いているかと尋ねるや、畑で獲れた野菜をふんだんにつかった手料理を振る舞った。
「茜ちゃんも、葵ちゃんも、本当にええ子やったよ。いつもわしらに挨拶してくれて、家の仕事もよう手伝っていたしなあ。葵ちゃんが選んだんなら、あんたもええ子なんやろなあ。都会であの子は少しでも幸せだったならよかった」
約束通り、老女は外が涼しくなったころを見計らい、僕を墓場へ道案内してくれた。後ろ手を組んだ小さな背中がゆっくりと山の斜面に付けられた石段をのぼっていく。
山の斜面にいくつもの墓がひっそり立てられていた。彼女の墓もそのひとつだった。側面にも彼女の生没年が彫ってある。そして彼女の隣に刻まれていた、没年のない名前は。
「茜ちゃんや。葵ちゃんのお姉さん。いつ死んだかわからんで、ああしてあるんや」
「たしか聞いたことがあるんですが、行方不明になった場合には七年経たないと……」
「いやあ、茜ちゃんはたぶん、山神に取られてしもうたから。仕方ないんや」
「は、山神?」
「そうやあ。この辺りの神さまは男でな、花嫁を取りおる。昭和に入ってからはそんな聞かなんだが。茜ちゃんが綺麗に育ったもんだから、欲しくなっちまったのさ」
じゃあ、と舌が口の中ではりつく感じを覚えながら、老女に思わず聞いていた。
「葵が、死んでしまったのは……?」
「葵ちゃんは、茜ちゃんに瓜二つだったからねえ。背負った宿命まで同じだったのだろうよ」
墓は綺麗に掃除し、花を供え、線香を立てた。最後に、姉への手紙が入った例の瓶と桜貝を置いた。
老女と僕は墓の前でしっかり手を合わせた。
「悠太、ありがとう」
耳元でささやく声。僕は振り向いた。
遠目に、山々の木々を駆け去る白いワンピース姿の女がいた。彼女の後姿にそっくりだ。
見間違いかと思っているうちに消えてしまった。
……彼女は望み通りにふるさとへ帰ってきたのだ。
蝉の声が夏の残響のように響いていた。
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