田圃と夏と、聳える山

1/1
前へ
/1ページ
次へ
山は神の住処だと言った。 そんな言い伝えを聞いた事がある。 今はそれを信じている訳では無いが。 田圃と夏と、聳える山 幼い頃、祖母の家に行った。 所謂里帰りというやつだ。 東京住みの自分にはもの珍しい景色だったのを覚えている。 ただ、それも曖昧な記憶だ。 なんせ、本当に小さかったから。 両親が知らない大人達と親しげに話していたのは不思議な感覚で、 特に祖母を敬っているのが、変な感じだった。 当時、祖父はもう居なかった。 祖母の伏せ気味の目は見えているのかどうかもわからない。 大人が話し掛けても頷くだけだ。 老いた人間に興味を持った幼い自分は、じっと祖母を見ていた。 山に入ってはいけないよ しゃがれた声は、ぽつりと言った。 その一言だけはよく覚えている。 祖母が発した唯一の言葉だったから。 まあ、子供とは言いつけを守らない生き物だ。 自分も大人の目を盗んで祖母の家を出てうろうろと歩いた。 田圃と青空。それしか無い村だった。 だから余計、聳える山が目に入る。 何も考えず、幼い足で山に入った。 その時の事は殆ど覚えていない。 蝉の声が煩かったから夏だったんだろう。そのくらいの認知だ。 ただ、赤と青の眼が脳裏に有る。 そのオッドアイの少年が 帰りなさい と言った。 それだけは、覚えていた。 どうやって山を降りたのかはわからない。 親に訊いたが、そんな事が有ったのも知らなかった。 ただその時、あの山には神が居て昔は生贄を捧げていたのだという話をしてくれた。 赤と青の少年の正体はわからない。 俺は、生贄にされた者の幽霊なんじゃないかと思っていた。 仕事で帰ってくるまでは、それも思い出しすらしなかったけど。 祖母の家は、空き家になっていた。 取り壊す予定だと聞いているが、詳細は知らない。 それに今日の里帰りには関係の無い話だった。 この何も無い田舎に聳える山。 その山を開拓する為の視察に来たのだ。 山内に、開拓会社の先輩達と入った。 蝉の声が五月蝿い。 けれど、その騒音に幼い記憶が蘇った。 山頂を目指し歩いていく中で思い出し、だんだん体がおかしくなる感覚を覚える。 「先輩、俺ギブします」 「熱中症か?仕方ないな、麓で待ってろ」 すみません、と謝ってから方向転換した。 山を降りきれば、視界には枯れた田圃と青空しかない。 会社が立てたテントもその風景の一部過ぎて、何故か違和感が無かった。 唯一の日陰に入りパイプ椅子に座り、一つしか無い長机に陣取ったやかんから麦茶を紙コップに注ぐ。 冷たくもない水分を喉に通すと、ぐらぐらとした感覚はマシになった。 「こんにちは」 声を掛けられたのに驚き顔を上げる。 そこには、着物の女性が居た。 いつの間に、何処から来たのか。 そんな疑問が過ったが、花の様な笑みに取り敢えず挨拶をした。 薄いピンク地に菊の花が散りばめられた着物は、何故か懐かしく感じる。 何処かで会ったような気がする女性は、化粧をしている様には見えないが十分美しかった。 「こんな田舎に何か?」 今日の予定は一応村人達に知らせた筈だが、女性は知らないようだった。 なんとなくまごつくと、女性は許しを匂わす微笑みを湛えた。 「山に用が有るのでしょう?」 詳しくは言わないが、察してはいるような口ぶりでいる。 俺は頷いた。 「あの山にはね、神様が居るのよ」 言い伝えだけどね、と付け足される。 山神はおそろしい力を持っていて、山に入る者を赦さなかった。 でも、山神に生贄を捧げたら、山神は気を良くしこの村まで護ってくださるようになった。 その加護で、この村は毎年豊作になった。 「まあ、今はその加護も必要じゃなくなってしまったけれど」 山を見ながら、女性はそう語った。 「貴方は、その生贄がどんな人間だったと思う?」 そう問われても、さあ、としか言えない。 「貴方はその子に会っているわ」 この女性は何を言い出すんだろう。 不審に思ったが、その瞬間、思い出した。 赤と青の、オッドアイの少年。 「私もね、ちっちゃい時に勝手に山に入ってね。その子に帰されたの」 「宝石の様な、緋と蒼の眼の少年だった」 その言葉に、全ての記憶が戻った。 あの少年は、やはり。 「貴方、彼とは喋った?」 俺は否定の首を振る。 「私は少しお喋りをしたわ。それで、本当の事を教えてもらったの」 山神様は、居る。 そして捧げられた僕は、あの人の嫁なんだ。 どうか、僕達をそっとしておいてほしい。 ただひっそりと、静かに過ごしたいだけだから。 「生贄を捧げたのは、300年くらい前だと聞いたわ。きっとあの子は山神様の力で不老長寿になったのね」 女性の話に、正直唖然とした。 きっとこの人が会った少年は、俺が会った少年と同一人物だろう。 信じられない話だが、何故か信じられた。 「ねえ、お願い。あの山をそっとしておいて」 女性は頭を下げ、お願いします、と繰り返す。 「頭を上げてください。下っ端の俺にはそんな権限無いんです」 慌てて言うと、女性は背を正し僕を見た。 「貴方はこの土地の一族よ。あの家に住めば山を保持する権利が有るわ」 あの家とは、今は空き家の祖母宅の事か。 確かに、祖父母はこの辺りの地主だったが。 何故それを、と呟くと、女性は微笑んだ。 「孫の顔くらいわかるわよ」 俺は、え、と漏らす。 俺が最後に見た祖母は、棺桶に入っていた。 あれは確か、中学生の時だ。 だとしたら、目の前に居る女性は。 お願いね。可愛い孫や。 俺が冷や汗を拭って瞬きをした瞬間、女性は居なくなっていた。 先輩達がテントに帰ってきた時、空は赤く色づいていた。 二人はまるで山から逃げてきたかの様な風貌で、ぎょっとする。 先輩達は揃って、あの山は危険だ、と言ってきた。 恐ろしい叫び声を聞いたと、怪物が居るに違いないと報告してくる。 昼までの自分だったらそれは熊だろうと呆れただろうが、今になれはそれが山神の威嚇なのかもしれないと考えた。 調査隊長は震える声で会社に電話をしているが、きっと携帯の向こうの上司達は呆れているに違いない。 だから俺は、隊長の耳元から大声である宣言をした。 蝉の声は、あの時より小さく感じる。 その代わり、蜻蛉を見かけるようになった。 そんな田舎に、俺は居る。 祖母宅は今や自宅になった。 この、よく言えば歴史ある屋敷、悪く言えば広いだけのぼろい家に住みたいと両親に相談したら、心底心配された。 それでも俺はこの屋敷に引っ越してきた。 これからどうやって暮らしていくかは考えていなかったが、最悪山神様の下へ行けばなんとかなるような気がしていた。 そうそう、あの女性についてだが。 屋敷の棚中に、薄いピンク地に菊の花が散りばめられた着物が有った。 それは正しくあの女性が着ていたものだ。 あの人は、やはり祖母の霊だったのだろう。 俺が今この家に住んでいるのを見て、成仏してくれただろうか。 さあ、書類やら手続きやら、面倒くさい事をやるか。 それが終わりあの山も正式に敷地にしたら、オッドアイの少年に会いに行こう。 山は変わらないと、報告しなければならないから。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加