Rullante 〔転がるように〕

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宮瀬の家で準備と練習を済ませて会場である大学へ向かう。日本トップの音大で宮瀬の出身大学。音楽を人生の指針とした者たちが集まる場所。どんな場所かと内心わくわくしていた奏始だが、着いて早々その規模の大きさに圧倒されることとなった。 「ここほんとに大学?」 「は?」 「大学ってこんな広いの?」 「……あぁ。この大学は広い方だが、まあ大体はこんな感じだろうな」 「へぇ……学校には見えないなぁ」 大学という場所に足を踏み入れたのは初めてだ。今まで通ってきた「学校」とは全く違う。建物は大きいし、多いし、綺麗だ。通りすがりにコンビニも見えた。すごい。辺りをキョロキョロ見回しながら歩く奏始の腕を宮瀬がため息をつきながら引く。 「おい、どこ行くんだ。こっちだ」 「うん」 生返事にまたため息をつかれたところで、奏始はやっと意識を宮瀬に戻した。 「お前こんなところで勉強してたの?」 「まあ。留学してたから2年だけだが一応」 「いいなぁ」 素直な感想を吐くと、宮瀬が口を半開きにして固まった。さぞかしいいピアノも置いてあるんだろう。それに触り放題。クソ羨ましい。 「なぁ、ピアノって何台あんの?」 フリーズした宮瀬に首を傾げながら奏始が馬鹿みたいな質問をしたのと同時に、知らない声が宮瀬の名を呼んだ。 「宮瀬くん!」 「……飯島さん、お久しぶりですね」 「久しぶりだねぇ! 元気かい?」 瞬時に爽やかな好青年の皮を被った宮瀬に笑いそうになって、奏始は咄嗟に俯いた。それに気づいたら宮瀬が強めに奏始を小突く。小突き返しながら顔を上げると、飯島某はすぐ近くまでやってきていた。中年くらいの男性で、奏始たちと同じようにスーツを身にまとっている。撫で付けられた髪と背筋の伸びた立ち姿は清潔感があった。 「おかげさまで、はい。……今日はよろしくお願いします。飯島さんもこの演奏会に出るって知って驚きましたよ」 「ここの教授が知り合いなんだけど頼まれて断れなくてさ。ま、宮瀬くんの演奏も聞けるなら来た甲斐あったかな。ところでこちらは?」 宮瀬に隠れるように立っていたところを急に話しかけられてびくりとする。ちらりと宮瀬を見上げると、視線がかち合う。宮瀬は少し首を傾けて、そしてまた飯島に目を戻した。 「彼は香坂奏始、ピアニストなんですよ。俺とユニットを組むことになりまして」 「宮瀬くんがユニットを!?」 「ええ。今日が初舞台なんですよ」 「あぁ道理で聞いたことがないわけだ。君がユニットを組むなんてトップニュースだろう」 「はは、そんな」 「ところで彼はどこの」 「飯島さん、宮瀬さん!」 急き込んで聞いてくる飯島の言葉を遮るように、また別の声がかかった。声の方向を見ると、大学生だろう正装の女性が駆けてくる。 「本日はお越しいただきありがとうございます! どうぞよろしくお願いいたします。楽屋に案内させていただきますね」 どうやら今日の演奏会の運営をしている人だったようだ。ちょうど飯島との会話も途切れることとなり、奏始は一人安堵の息をついた。飯島はずっとこちらを値踏みするような目をしていた。奏始が自分と会話するに値するかをずっと確かめていた。浮ついていた気持ちがすっと落ち着く。そうだ、俺は何をふわふわしているんだ。今日は宮瀬と俺の初舞台。ここでしっかりやらなきゃいけないのに。静かに気持ちを引き締め直して、奏始は先を行く宮瀬と背を追った。 楽屋に案内されたはいいが、すぐにリハーサルだと言うことで、宮瀬と共にホールに入る。大学の施設だとは思えないほどにしっかりとしたホールで、中に入って奏始はぽかんと口を開けた。 天井が高い。音が響くように設計されたそれ専用の空間。奏始の生活では演奏会を聞きに行くことすらままならなかったため、こんなきちんとしたホールにも初めて足を踏み入れた。 「すごい……」 思わずぽつりと零すと、宮瀬が静かに問うた。 「ホールは初めてか?」 「うん」 「そうか。……今日はここいっぱいに俺たちの音を響かせるんだ」 「……うん」 「最高だぞ? 一度味わうと二度と戻れない」 見上げると、宮瀬は不敵に笑っていた。 「初陣だ。圧倒させてやろうぜ」 自信たっぷりなその様子に、自然と唇が笑みを作った。それでいいと言うように宮瀬が奏始の背中を叩く。準備に騒がしいホールの中、二人の周りだけが静かだ。気持ちが再び昂ぶってくるのを感じる。これは嫌な昂りではない。いい演奏が出来る予感の高揚だった。 とは言ったものの。やってきた演奏の時、舞台袖でも余裕の態度な宮瀬に対して、奏始は指先が震えるような感覚を味わっていた。アナウンスが入って二人の名前が呼ばれる。促されて舞台の中心に歩いて行く間も、どこか現実感がなかった。 セットされた椅子に座り、呼吸を落ち着ける間に足が震えだす。ピアノの斜め前に宮瀬が立った。宮瀬が弓を構えるに合わせてなんとかピアノに指を載せたその時、奏始は「あっ」と思った。鍵盤に指が触れた瞬間、そこから感覚が戻ってきたのだ。狭くなっていた視界が広がり、キーンと耳鳴りがするようだった息苦しい空間が緩む。ぽかんとしながら宮瀬に目をやると、まるで分かっていたかのように目を細める宮瀬がいた。しっかりと視線を合わせて呼吸を揃える。 そして一音目。 あ、いける。空気を切り裂くように澄んだ音が鳴った。観客の意識がぐっとこちらに惹きつけられたのがわかる。そうだ、それでいい。こっちを見ろ。俺の音を聞け。 そこからは夢中だった。音響の整ったホールは奏始の生み出す音を余すことなす聴衆に届けた。音が綺麗に、思い通りに響くのがわかる。聴き手が息をひそめて聞き入っているのがわかる。 あぁ、なんて楽しいんだろう。 思うがままに指が走る。音が鳴る。 そして、どこまでも一人で走っていきそうな奏始の音楽を、そっと宮瀬のヴァイオリンが支えてくれている。聴き手を放って一人の世界に入りそうな奏始のピアノをうまく橋渡ししてくれているのだと、どこかで冷静な自分が分析していた。 だったら。すぅと息を吸い込むと、宮瀬がちらりと奏始に視線を寄越した。お前が支えてくれるのなら、今日は思う通りにやっていい? 目でお伺いを立てると宮瀬がにやりと笑った。言葉にせずとも伝わる。許可が出たのだ。思いっきりやろう。またすぅと息を吸い込む。呼吸を吐き出すのと同時にギアを上げると、ヴァイオリンは同時に柔らかな音を鳴らした。
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