Agitato 〔激しく・苛立って〕

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音を立てて古びた鉄の階段を上る。カンカンと耳障りな高い音。奏始の家は狭いアパートのワンルームだ。高校を卒業してから21歳の今まで住んできたこの部屋は、片付けが得意とは言えない奏始のせいで散らかっていて、今日はそれがひどく惨めに思えた。 思い出されるのは先程の出来事だ。 宮瀬といういかにも高位そうなαと揉めてしまった。地位もお金も持っていそうなαだった。圧力がかかれば店なんか簡単に潰されてしまうだろう。確実にクビになる。そう覚悟した、が、実際にはオーナーには少しお小言を言われただけで済んだ。どうやら宮瀬が取りなしてくれたらしい。外面のいいことだ。しかしそれが余計に悔しかった。 「俺と組め」という言葉は確かに気持ちを高揚させたが、同時にもう幾度となく感じてきた諦観を思い出させた。 Ωはコンクールには出られない。出場の権利がないのだ。Ωが出す“フェロモン”が審査員や他の出場者に影響を与えるかもしれないから。それがコンクールへの出場を禁止される理由だ。 いや、コンクールだけではない。スポーツの大会も、他の公的な試合も会議も何もかも。 Ωに与えらる権利など、無い。 この世界はΩには厳しい。α、β、Ωと男女の性とは別に存在するこの3つの性はどれを持って生まれたかによって人生の明暗をはっきりと分ける。 βはノーマルな性。何も特性を持たないかわりに、αからもΩからも影響を受けることはない。 αとΩはあらゆる意味で対の存在だ。 高い能力値が備わったαと容姿以外の全てが劣ると言われるΩ。 αとΩは互いにフェロモンと呼ばれる“匂い”を発している。そのフェロモンによって引き合い、“番”という存在になるのだ。しかし、そのフェロモンが問題で、それは互いの発情を促す。そしてΩには発情期と呼ばれる、αを誘惑するフェロモンを出しセックスのことだけしか考えられなくなる期間が3ヶ月に一度やってくる。 高い能力を持ち、それゆえに社会的な地位が確保されるαと、整った容姿に発情期を持ち“誘う”ために作られたと言われるΩ。社会の頂点と底辺。 香坂奏始はその底辺の一員であった。 奏始の母もΩだった。いわゆる“いいところ”のお嬢様であった母は彼女がΩだと判明してからは冷遇され、高校を卒業した後に家から縁を切られたらしい。それから体を売って生きてきた彼女は23の時に俺を産んだ。 気づいたときにはもう堕ろせないほど大きくなってしまっていたそうだ。 「あんたは不運ね」が母の口癖だった。 奏始には産まれることなく命の火を消した“幸運な”姉だか兄だかがたくさんいるらしい。 そんな母は意外にも息子をきちんと育てた。 貧しかったけれど最低限の衣食住は確保されていたし、少なくとも虐待されることはなかった。 何よりも母は奏始を学校に通わせた。義務教育の小学校、中学校、そして高校まで。普通、Ωが高校に行くことはほとんどない。中学を出れば今の奏始のように働くか、または母のように体を売る。しかし、母は「あんた頭いいんでしょ? だったら行っときなさいよ」と奏始を無理矢理に高校に通わせた。周りからは「立派ねぇ」と感心されるそれは、奏始にとっては苦痛だった。 母の言うように頭はそこまで悪くないという自負はある。なんなら学年で上から数えたほうが早かったくらいだ。しかしそれは周囲の生徒に目をつけられる原因にもなった。 「Ωのくせに」「何もできないくせに」「セックスのことだけ考えてろ」そんな言葉から逃げるように俺は勉強にのめりこみ、そしてそれがますます自分を傷つけた。世界は広い。それなのに奏始の前にある世界は狭くて暗い。それ以外の世界を見ることが許されない。自分はαよりもβよりもきっと何でもできる。勉強だって仕事だって音楽だって。 プライドは自分を生かす力にもなるが、苦しめる鎖にもなる。奏始のプライドは正しく自分を苦しめる鎖だ。 水を跳ね飛ばしながら手を洗い、余計な考えを振り払うために冷たい水を顔に浴びた。秋口の水はやけに冷たく感じる。顔をあげると青白い顔をした自分と目が合った。生来色素の薄い茶色い髪は濡れると黒々として見える。今は、髪と同色の茶色の目も鏡の中で黒く濁っているようだ。睨みつけるように鏡の中の自分を見返すと、猫のようだと言われる目がひどく吊り上がって見えた。 「阿呆らし……」 もしかしたら、なんて。考えるだけ無駄だ。 音楽は奏始の生きる糧だ。なぜ好きなのか。なぜ弾きたいのか。そんなことはどうだっていい。奏始はただ音楽が好きだ。 だから宮瀬に認められたと感じたとき、共に弾こうと誘われたとき、間違いなく奏始は嬉しかった。でも、やっぱりどうしたって奏始はΩで、コンクールには出られない。悔しいんだか怒りたいんだか、それとも泣きたいんだかわからなかった。 母の言葉を思い出す。 色んなことを知れば知るほど、出来るようになることが増えれば増えるほど、この世界の不自由さに苦しむ奏始を、かつて母は嗤った。 「世界が憎いでしょ、奏始。Ωってそういうものよ」 母の言葉は呪いだった。
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