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家に帰ると、自分のものではない靴が一足、玄関の隅の方にきちんと揃えられていた。
ここしばらくでもう見慣れた光景だ。どうやら香坂は今日も来ているらしい。仕事の後にそのまま寄って、終電ギリギリに帰る。真尋がいるときは一緒に練習をしたりもする。そんな生活が毎日続いている。
「おかえりー」
「ただいま」
防音室の扉を開けると、ちょうど演奏と区切りだったのか楽譜を睨んでいた香坂が声をかけてくれる。こんなやりとりも、もう違和感がなくなった。最初の頃はお互い何となく気恥ずかしい思いをしていたが、慣れてしまえばもう無意識だ。
「なんかいい匂いする」
「ピザ買ってきた。食べるだろ?」
「食べる!」
いそいそとピアノの椅子を降りて近寄ってくる香坂を笑うと、俺を睨んでむっと眉を寄せる。
「なんだよ」
「いや? 腹減ってるんだなと思って」
「昼飯おにぎり一個だった」
「なんで」
「金欠」
今度は真尋が眉を寄せる番だった。こういう時、どう声をかけていいのか分からないのだ。何を言っても同情のように聞こえてしまうのではないかと思って躊躇う。今まで俺の周りには、金欠だと言って飯を抜くような友人は存在しなかった。
「食べないのか? これ食べていい?」
返答に詰まった俺を尻目に、香坂は好みの種類の部分をちゃっかり確保している。買ってきたのは二切れずつ異なる種類が混じったピザだが、この分だと残るのは甘いところだけだ。見た目に反して、と言うと怒られるが香坂は辛党だ。そしてそれは俺も同じで。
「……同じのばっか食べるなよ」
「食事は戦争なんだよ、お坊っちゃま」
「うるさい。というかここで開けるなよ、匂いがこもるだろ。リビングへ行け」
「はーい」
片手に食べかけのピザ、反対にピザの箱を持って立ち上がった香坂がピアノの前で「ん」とこちらを振り向いた。開けろという催促に「お前は猫かよ」と突っ込みたくなるのを堪えて扉を開けてやる。口に入れたピザを咀嚼しながら「あんがと」と言う香坂に今度こそ「ったく」という言葉が出た。さっさとダイニングテーブルにつく香坂を横目にキッチンに向かい棚を漁る。
「なんかスープ飲むか?」
「今から作るの?」
「インスタントだ」
「インスタントなんか飲むの? 宮瀬が?」
「俺をなんだと思ってるんだよ」
「金持ちのお坊っちゃん」
「お前なぁ」
「あは、でもスープは欲しい」
「ん。湯沸かすからちょっと待て」
最初の頃は何か食べさせるのだけでも一苦労だった。香坂はどこかの工場で働いているらしく、それが終わってすぐうちに来ることが多い。そしてそのまま夜遅くまで練習して帰る。いつ夕食を食べているのだと不思議に思って聞くと「食べていない」と言いやがった。放っておくと食事をしない香坂を見かねて、帰す前に食べさせるようになってから一気に距離が縮まった気がする。遠慮する香坂に「お前一人分の食費なんて何の負担にもならない。むしろ演奏のために体力をつけてもらわないと困る」と言いくるめて共に夕食を食べるようにになったのだ。そもそも、最初の頃はここに来るのも週に数回、それも毎回きちんと事前に連絡を入れてお伺いを立ててくるくらいだった。何かを俺に強請ってくるなんてもってのほか。俺のすることなすこと全てにビクビクと反応していたのだが、それが今や好物を要求したり、俺にドアを開けさせるほどに遠慮がなくなった。ずいぶんと馴染んだものだ。俺はまるで野良猫への餌付けが成功したようだと密かに思っている。
香坂に出会ったのはまだ夏の気配が残る季節だった。そして今はもう冬真っ只中。長いようで短い時間だが、ある程度の信頼を勝ち取るには十分だったらしい。
「宮瀬?」
「ん? あぁ、コーンスープとポタージュどっちがいい? 好きな方を選んで」
言ってから、あ、と思った。同じように香坂も気がついたのだろう。
「あれ、今の外用の宮瀬だ」
にやにやと笑われる。ぼんやりと考え事をしていたので、無意識に当たり障りのない方が出た。こいつに外面の方を見られるのは妙に恥ずかしいのはなぜだ。
「なんで宮瀬はそんな外と内、きっちり分けてんの?」
爽やかな宮瀬って気持ち悪いと尚も笑う香坂を睨んでみせる。
「そっちの方が便利なんだよ。素がこれだからな」
「まあ確かに。素の宮瀬は音楽のヤクザって感じ」
「好き放題いいやがって……人当たりが良い方が得だろ。この業界、コネも大事だ。ニコニコしときゃお偉いさんへの覚えもいいし、演奏会の依頼も入りやすい」
なーるほど、と言いつつ香坂はピザを頬張っている。聞いたくせに全く持って興味の無さそうな態度に、軽く頭を小突いてやると、その手にごつりと頭をぶつけてやり返された。
「お前も外面くらいあるだろ」
「んー、外面ってか俺は外では空気になろうとしてる。存在消してたほうが楽だし」
また言葉に詰まらされた。香坂はなんでもないことのように言うが、今まで香坂のようなやつに会ったことのない俺には上手く流せない言葉だ。外面であれば何とはない会話が、素の今はどうしていいのか困る。少し悩んで結局のところ出たのは「そうかよ」という情けない台詞だった。
「……お前もこの先大勢と話すんだからな」
「なんで?」
「演奏会とかコンサート、するだろ。そうすりゃ色んな人と話す機会もある」
「あぁ、なるほど。まあでも俺はΩだからあんまり表に出ないほうがいいだろ? そのあたりお前に任せるよ」
言葉に詰まるどころか、ぐっと息を飲む音が身体の内に響いた。時折、香坂はこうして自分がΩであることを強調する。親しくなることで曖昧になったラインを改めて引き直すかのように。
αである、Ωであると言ったことに香坂はひどく敏感だった。いや、というより自分がΩであるということに敏感だと言ったほうが正しいか。
Ωやαということは音楽の前にはどうでもいいと真尋は思う。しかし香坂はそうは思わないようだった。
「お前……」
「ん? あ、俺コーンスープがいい」
口の端に赤いソースをつけて要求されたのはそんなことだ。いちいち真剣に考えている自分が馬鹿らしくなって、真尋は香坂用のカップにポタージュの粉をざらざらと入れてやった。
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