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演奏会当日。わくわくしているんだが緊張しているんだかよくわからない昂りは日に日に高まり、結局昨夜はよく眠れなかった。眠い目をこすりながら宮瀬の家に向かった奏始に、朝から優雅にコーヒーを飲んでいた男はため息をついた。
「お前なんでそんなになってるんだ?」
「なんでも何もコントール出来たら苦労してない」
さすがに宮瀬は慣れているのだろう、いつもと何も変わらない。奏始とユニットを組んでからも、コンサートだレコーディングだとあちこちを飛び回っていた男だ。余裕のある態度に奏始は唇を尖らせた。
「失敗したらどうしようとか思わないわけ?」
「そんなこと考えてたらきりがないだろ」
「ってことは考えたことはあるんだ?」
「……揚げ足を取るな」
「ふ~ん、宮瀬もやっぱ緊張するんだなぁ」
にやにや笑っていると頭をはたかれる。
「痛っ」
「……俺だっていい演奏が出来るかどうか緊張しなくはない。ただそれ以上に俺がちゃんと弾けるって知ってるだけだ」
流石だなと思う。これまでに積み上げてきた経験と確固たる自信がある。緊張はすれどもそれは足枷にはならず、御する術を知っている。
自分はどうだろう。人前で弾く経験はバーで積んできたが、それと今日の演奏会とは全く別の心持ちなのだ。今までは他人の評価などどうでも良かった。それが、今は人の評価を欲しがっている。だから緊張しているのだろうか。それとも。
「準備するぞ」と言ってさっさと寝室に引っ込んだ宮瀬の背中を思い返す。今までは一人だった。今日からは二人だ。奏始の演奏は奏始だけのものではなくなる。二人の評価だ。
乾いた唇をゆっくりと舐めて湿らせる。俺は怖がっているんだろうか。
「何やってるんだ。早く準備しろって」
いつの間にか奏始の目の前に立った宮瀬はきっちりと衣装を着ていた。奏始と同じ色合いのスーツだ。黒いスラックスに黒いシャツ。ネクタイも黒だが、銀のラインが控えめに入っている。長身にそのスーツはよく映えた。
その姿をぼうっと眺めていると、宮瀬にせっつかれて奏始は持ってきた衣装に袖を通した。防音室を借りて着替えを済ませ、リビングに戻ると宮瀬が手招きして奏始を自分の前に立たせた。
「何?」
「ちょっとじっとしてろ」
上から下まで目を滑らせたかと思うと、手が伸びてきて襟元やネクタイを正される。宮瀬とは色違いの金色のラインが入ったネクタイが結び直される。長い指が首元をくすぐって、思わず首を竦めた。
「ネクタイをしたことは?」
「ない」
「だろうな」
「なんだよ」
喉の奥で低く笑って、宮瀬の指が離れていった。何となくそれを目で追う。ヘアワックスのケースを手に取った宮瀬は、中身を少し馴染ませた指を奏始の髪に差し込んだ。目にかかっていた髪がよけられる。視界が広がって、眼前の真剣な宮瀬の顔がやけに鮮明に見えた。
「……緊張はいいスパイスになる。そもそも人前で演奏するのに緊張のないやつは締まりの無い演奏しかできない。だからお前は間違ってない」
「励ましてくれてんの?」
「鼓舞してるんだ。相棒だからな」
「ふは、ありがと」
笑った拍子に息を吸い込むと、体の中にふわりと甘い香りが広がる。αの香り。初めて会った時も、宮瀬のフェロモンは強く奏始に届いた。あの時は圧倒的な強いαを感じさせるものでしかなかったが、今はそれがざわざわとしていた心を落ち着かせてくれるものになっているのを奏始は目を閉じて感じた。
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