サラリーマン、無限の怒りを宿した怪物と化す

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一  都内某所、九月上旬午後七時、とある牛丼屋。空腹な客達は甘辛く味付けされた牛肉と米で熱エネルギーを補給しつつ、空調設備から放たれる涼気で、汗ばんだ体を冷やしていた。店内は鎮座するU字型のテーブルに沿って、等間隔に丸椅子が付けられている作りなのであるが、その端に、意気消沈したサラリーマンが一人座っていた。首元のネクタイは緩められ、白い襟付きシャツからは弱々しい体躯が透けて見える。彼はメニューにある中で最も小さい牛丼を頼み、つゆで黄金色に染まった米粒を一つ箸で摘まみ、口に運び、モゴモゴと噛み、飲み下し、深いため息をつき、また摘まむ、この繰り返しを一時間ほど続けていた。  組織の新陳代謝を図る目的で、急に施行された人員の再構築(リストラ)。彼自身、会社から削減される心当たりはあった。入社して五年も経たない新人に要領の良さで負けている自覚があった。しかし、彼には妻子がいた。その上ローンで家と車を購入したばかりであった。彼の同僚も、上司も、その事情を知っていた。血の通った人間が、なぜかような立場にある者を解雇できるのだと彼は驚愕した。世知辛いと誰もが口を揃えて言う社会とやらだが、いくらなんでも、人間を不道理に真人間のレールから外すほど非人情ではないと、彼は内心で無邪気に信じていたのだ、人間あっての社会システムが、人間を決定的に粗雑に扱うわけはない、ましてや家族のいる自分を……と、そう信じきっていたのだ、この通達をくらうまでは。男の人格の根底に鎮座していた、精神の基盤たるその信念に、致命的なひびが入ったのが、残暑激しい今日なのであった。 「今日限りで、というわけではないが、少なくとも君には今後一ヶ月以内に、確実に会社を辞めてもらうことになる」  数時間前に聞いた、上司の冷たい声、申し訳ない、という取って付けたような呟きもあるにはあったものの、男はそこに謝意など一切感じられなかった。彼はあの場でゴネなかったことを激しく後悔した。自分の職務の下手さを引き合いに出されることや、微かなプライドを粉微塵にされることを恐れ、押し黙ったことを後悔した。反抗できていたならば、せめて、半強制的な解雇の交換条件を何か提示できていたならば、と、無駄なタラレバを心中で繰り返し、それすら思い浮かばなくなれば、牛丼をチビリと食べて間を埋めた。彼は空腹ではなかった。にもかかわらず、わざわざこのようなことをしているのは、家に帰ることを忌避したからである。妻に何を言われるか、どのような顔をされるか、いや、何か反応をしてもらえたら幾分かましな方で、最悪の場合、淡々と離婚を突きつけられるかもしれない。娘もろくに帰ってこない父より、母親について行きたがるだろう。彼の広い額から冷や汗が滲み出る。眼鏡越しの視界がぼける。  小ぶりな牛丼で長居する客に、店員がなじるような目つきを向け始めた頃、男は意を決して残りの牛丼をかきこみ、店を後にした。スマートフォンが何度も震えていた。妻がなかなか帰ってこない自分を心配し、連絡してくれているに違いない。彼女と話すことをできるだけ先延ばしにしたかったので、着信は無視して家へ直行した。  住み慣れた一軒家の周りに人だかりができていた。二階の窓から噴き出す橙色の炎。消防車から放たれる糸のような水。救急車とパトカーが撒き散らす赤色の光。男は既に静かになったスマートフォンを確認した。しつこかった着信は妻からの頼りではなく、警察当局からの緊急連絡であった。身体のラインと、焼けついて肌と一体になった服のデザインから、かろうじて女性であると推測できる、大小二つの黒焦げの死体が、担架の上に仰向(あおむ)いていた。警官や救急救命士が話しかける暇も作らず、男はその場から消え去った。  ふと我に帰った折には、男は市内某公園のベンチに腰掛けていた。周りを常緑樹とフェンスに囲まれ、遊具よりも平地が目立つそこは、日の登っているうちは、高齢の散歩者や、遊び足りない少年少女などで賑わっているのだが、日没時は人気(ひとけ)が消え、公園外側の道路を走行する車の音も樹木によって吸収され、葉擦れの音や虫の鳴き声のみが点々と響くのみの、閑寂とした区域である。ここは彼の家から徒歩約四〇分。どのようにして歩いたのか男は全く覚えていなかった。半ば眠っているかのように薄らいだ意識の中で、男は可能な限り静謐を感じられる場所を探し、夜の公園にたどり着いたのだ。  曖昧な意識の中で、男は人生を回顧していた。彼は、幼い頃より、他人の目を気にしてやっと生きられている人間であった。周囲の人間に嫌われる行動を避け、周囲の人間が何やら楽しんでいる娯楽を嗜み、近しい人間が飽きれば同時に飽きる人生であった。「状況に関係なく何何を行いたい」という確固たる意志を、抱いたことが無かった。この境遇は、男の才覚が、何に対しても中途半端であったことにも起因している。小学校から高校に至る時分まで、勉学、体育、何においても周りと比べて中間層。幸いにも両親の金銭的備蓄があったので、大学に通うことこそできたものの、学問に大した関心の無かった彼は、熱心に研究を行うわけでもなく、かと言って課外活動や遊興に精を出すわけでもなく、大学に存在しないかのように大学生活を終えた。在学中に就職活動を始めたのも、周りが行っている頃合いだったから、という理由に尽きた。それでも質疑応答の手本をそれとなくなぞり、空元気を出して聞こえの良い言葉を喋ったところ、彼は、自分でも驚いたことに「有名企業」からの内定を貰うことができた。職場で関わる人間のほとんどが妻帯者であったことから、自分も馴染むために結婚を試み、功を奏した。二〇代のうちに行動を起こしたからこその、拍子良い成功だったのだろうと、今にして男は思う。互いに「既婚者」という真人間の証を得るための、消極的な結婚であった。特別趣味が合うわけでもなく、産まれた娘も自分を特段好いてはくれなかったが、ろくに趣味も特技も無い男にとって、彼女らの生活を支え、家族の人生を支えると言う大義が、彼を労働に駆り立てる最大の強制力となり、彼の人生に湧き上がる唯一のモチベーションとなった。自己の生活指針を他人や組織に任せる生き方を選択したことに対し、男は満更悪い心持ちはしていなかった。自分のために奮い立てるほど、彼は自分のことを好きではなかったのである。  しかし、人生の原動力たる他者を失った時、この生き方はたちまちに瓦解し、悲しみと、自身の空虚な本性への失望が押し寄せる。一人で生きていける人間ではなく、孤独を恐れる自分に、かような災禍が降りかかったのは何故か。家族にも、自分にも、家を放火される謂れなどない。あの火事は偶然の事故であろう。故に、誰も恨めない。運命を司どる神を恨むほどの宗教的世界観も持ち合わせていない。それが男にあったならば、彼の人生は今よりも充実していただろう。  草葉の陰のコオロギの、清らかな音。男はやにわに自傷を始めた。髪の毛がまだ残っているこめかみに右手指を突き立て、血の混じったが爪に溜まるまで掻きむしった。口は苦々しくひん曲がり、喉を痛めてしまいそうな唸り声を漏らした。頭に飽き足らず、脇からみぞおちにかけての部分に、握りしめるように左手指を立て、ボリボリと傷つけ始めた。ポロシャツがシワだらけになり、内側の心臓に鈍い刺激が与えられる。痛みや不健康な興奮によって、次第に男の上半身は焼かれた海老のように反り返り、男は夜空を目の当たりにした。  その日の月は尖り、赤茶けていた。見上げた男の双眸(そうぼう)繊月(せんげつ)が焼き付く。空洞であった男の中に、妖しい月光が注がれる。白い結膜に赤く細い筋が走る。男は喉を震わせて音を出した。口が「あ」の形に空いていたので、「ああ、ああ」と叫んだように仕上がったのだが、その実言語らしい言語を喋っている意識は、男には無かった。木の下にいた彼は、身長の半分はあろうという手近な枝を握り締め、中肉の腕で高々と持ち上げると、運動場の中央に走り出し、振り回した。スポーツの心得がない彼は、時に野球の素振りのように、時に蝿叩きの一撃のように、出鱈目に太枝を動かしていた。梢から風を切る音がほとばしる度、男は自分の攻撃が何にもなっていないような感覚を覚え、増して腹が立った。  先ほどまでの自傷が、悲しみや、自らに向ける怒りから行われたものであるとすれば、この行為は他者や外界への憤りによるものであった。誰にぶつければ良いのか知れないが、自分の中に留めておけるほど些細でもないこの感情は、彼の身体をして空虚な暴走へと至らせた。男は矛先の定まらない負の感情を発散するために、目に映る全てのものに攻撃するポーズを取ったのだ。言い換えれば、彼は、世界に向かって八つ当たりしていたのである。  サラリーマンだった男が荒ぶり始めてから約三時間が経過した。月は天心に位置していた。彼が棒を振り回す勢いは全く衰えることはなかった。肉体労働者ではない痩身の中年男性が、サッカー二試合分の時間、手足を動かし続けられているのは何故か。彼を動かす要因は何か。それはひとえに、やる方ない鬱憤である。強い感情は良くも悪くも、人間に並外れた力を与える。並外れた行動を起こさせる。彼の情動が脳に疲労を忘れさせ、肉体の限界を無理矢理に超越させているのである。明確な対象に向けられた、研ぎ澄まされた怒りならば、数年保つ場合もあろう。しかし、あらゆる方向に分別なく発散され続ける怒りは、エネルギー効率が極めて悪く、一時間どころか数分持たせることすら難しい。男は後者を延々と継続していた。心の奥底に堆積していた、彼の陰鬱とした感情が、人生のカタストロフィによって表面に現れ、暴走の原動力となり、燃え盛っているのだ。燃費が悪い怒りを、膨大な燃料で長続きさせているのだ。我々は彼の肉体ではなく、彼の精神が溜め込んでいた熱量に驚くべきなのである。  月が地平線の底へ沈み、空が白み始め、彼の全身から滲み出る汗が衣服をヒタヒタに濡らしてもなお、男は当初の勢いそのままに暴れていた。もはや膨大な苛立ちを消費してゆく段階は過ぎていた。苛立ちが苛立ちを生み、増幅させ、肉体がそれに呼応してエネルギーを搾り出し続ける……暴力行為を繰り返させる精神システムが、彼の中で稼動し始めていた。かような「鬱憤の永久機関」とも言えるメカニズムが男の心中にて成立したのはなぜか。家族の突然の死、社会的地位の剥奪によって、彼が負の感情に囚われたことも要因の一部ではあるが、そのような不幸はなにもこの男にのみ起こったと言うわけではない。彼のような体験をしながらも、暴れ散らかさない世人も存在している。他の被害者と男との違いは何か、それは、彼が目の当たりにした、赤い月である。その形状と、揺らぐ光が、一時的に著しく不安定になった彼の精神、ぼやけていた彼の精神に、感情を増幅する催眠暗示を、偶然にも刻んだのである。  男の精神内に完成した「鬱憤の永久機関」は、男に絶えずエネルギーを与えると同時に、男から他の感情と記憶を削ぎ落とした。彼は何に喜び、何に悲しんでいたのかを忘れ、何のために怒っているのかをさえ忘れ、憤怒とエネルギーの詰まった肉塊と化した。怒りしか抱かない人間はおらず、けだもので己の子供を愛する。苛立ちの発露としての行動しかかなわないこの男は、もはや歪んだ怪物であると言えよう。  怒りに囚われた化け物に、最初に立ちはだかった存在が、人間でなかったことは、不幸中の幸いと表現するべき事であろう。朝ぼらけの公園の運動場に、異常者がいるにもかかわらず参入したのは、一頭の熊であった。体長二メートル、体重一〇〇キログラムは優に超えそうな巨体を緩慢に動かし、か黒い体毛は朝の湿気によってツヤツヤと輝いている。ギラついた両目の間には、肉を抉られた古傷があった。数年前、山で満足に餌を食い溜めることのできなかったこの熊は町に降り、街路樹の果実を食い、愛玩動物や人間を食い、腹を満たした。それからと言うもの、彼奴は人界が自分でも蹂躙できるものだと覚えてしまい、しばしば住宅街などを襲うようになってしまった。現在、この凶獣は被害の多さから他の熊と判別され、「S四一ー三」というコードネームが付けられている。朝になってもなお、暴れる男を通報しようとする者がいなかったのは、昨夜から公園周辺にてこの害獣の目撃情報があり、人の往来が極めて少なかったが故である。  九月の「S四一ー三」は冬眠を控え、食べられるだけ食べようとする精神状態にあった。そのような獣類が、目の前で棒切れを振り回す痩せ肉の男を、肉と思わない筈がない。「は少ないが、殺しやすそうだ」と言わんばかりの、ねちっこさと執念の混じり合った視線が、男に向く。男は昨日の夜から際限なく続けていた空虚なチャンバラをピタリと止め、首を錆びたネジのように回した。力の限り見開かれた、赤翡翠(ひすい)のように充血した眼が、熊を睨む。  互いに静止するごく短い時間。サラリーマンであった頃の、人間であった頃の男ならば、近くに現れた猛獣に怯えきり、なんとかして逃げおおせよう、生き延びようとばかりしていただろう。しかし今となっては、彼は恐怖を忘れている。己の内側に絶えず生まれては燃えたぎる、たった一つの感情に突き動かされ、シャクに触るものは何であろうと攻撃する生命装置と化している。先んじて相手へ襲いかかったのは男であった。ノソノソとこちらをうかがい回る鬱陶しい毛むくじゃらに立腹したのだ。怒りの塊は喉の張り裂けそうな絶叫を早朝の涼しい公園に放つや否や、なりふり構わぬ走りで一息に熊と距離を詰め、持っていた太枝を傷跡の目立つ頭に振り下ろした、が、固い毛と皮に覆われた頭骨を砕くには至らなかった。男が二度目の殴打を加えるよりも早く、熊が迎撃した。おびただしい殺気の籠った体当たり。単純な攻撃ではあるが、山の獣の図体と筋力にかかれば、爆薬に届きうる威力となる。男はまばたきほどの時間で運動場の端まで吹き飛び、公園を囲む常緑樹の一本にしたたかに背中を打ちつけた。衝撃によって幹に縦のヒビが入り、木の葉がバラバラと落ちた。通常の人間が食らったならば、苦痛にもだえて死ぬところであるが、男はぎこちないながらも立ち上がった。激情が骨折の痛みを塗りつぶしたのである。  太い脚を揺らして向かってくる巨熊を視界に捉えながら、男は再び立ち向かおうとしたが、その時、木の枝が無いことに気がついた。突進を食らった折に手放してしまったのだ。思い通りに攻められない事に苛立ちをつのらせた男は、うつむき、わなわなと震えながら、近くに立っていた鉄棒の握り棒を掴み、ありったけの握力をもって捻り込み、ねじ切った。彼の細い体躯のどこにかような力があったのか。その答えは、男を化け物たらしめる「鬱憤の永久機関」の副作用にある。無限の苛立ちや闘争心に伴い、彼の脳内にはのべつまくなしに大量のアドレナリンが分泌されている。この物質には、人間の脳から肉体に対して平時はたらいている出力制限機能を弱める効果がある。男は無意識にアドレナリン漬けになり、細い肉体に見合わないストレングスを常に発揮しているのだ。  両端を歪に尖らせた、硬質な灰色の棒を手中に収めた男。この時既に「S四一ー三」は標的の目前まで接近し、両腕を高く掲げていた。ただでさえ大きな体を、特別大きく見せるこの威嚇姿勢によって、男の体は猛獣の影に包まれる。低い鳴き声で朝の空気を震わせる黒熊。しかし男に一切の怯えは無かった。暗がりの中で眼をギラギラと赤く輝かせ、黄色い歯を食いしばり、歯茎を剥き出しにして怒りを発した。デカブツが、目の前で偉そうに突っ立ちやがって、ムカつくんだよこの野郎、と言わんばかりの雄叫びをあげて男は跳びかかり、鉄棒の先端を、けだものの喉元へ突き刺した。体勢を崩し、仰向けに倒れる巨獣。鉄管から血が溢れ出す。怒れる化け物は痛みに動揺する熊の腹にまたがると、刺さったままの棒を両手で掴んでグリグリと回し、傷口を広げた。ゴワゴワとした毛に鮮血が染み込む。大鍋に入った汁物ををかき混ぜるかのようなその動きをしばらく続けた、男は赤黒く濡れた棒を引っこ抜いた。それは攻撃の終わりを意味しなかった。痙攣する事しかできないほど弱っていた熊の、鼻がしらを、素手で思い切り殴ってひしゃげさせた。一発、一発、また一発と、感情を込めた重い拳を数え切れぬほど浴びせ、黒熊の顔面は歪み、化け物の拳は返り血や打撲や擦り傷によって変色した。  血みどろになった害獣を眼下に見据え、男は激しい空腹と喉の渇きを感じた。約半日間、飲まず食わずで暴れ回っていたのだから当然である。いくら感情が無限に湧き起こったとしても、それによって動かされる肉体は、何のエネルギーも無しに動き続けられる訳ではない。栄養素と水分を、男の全身が求めていた。彼は顔を熊の喉傷に近づけると、齧り付き、流れ出ている血液を摂取した。赤い目が一層カッ開き、痩せこけた喉仏が膨張と収縮を繰り返すその姿は、伝承の吸血鬼を思わせた。飢えた化け物は勢いそのままに、のびた猛獣のだらりと垂れた舌に食らい付いた。遠目に見れば、熊と接吻をしているのかと勘違いしてしまうであろう光景。余りにも新鮮な舌を咀嚼し、男は自らに僅かばかりの栄養が巡っていく感覚に、身をよがらせながら叫び声を上げた。屍肉をと企み、公園の上部を飛んでいた鴉たちが、一斉に散った。    「S四一ー三」として恐れられていた大熊が、赤黒い染みの付いた、何本かの骨に成り果てた時分、公園の時計は正午を指していた。男は運動場の広い日向にて、中身の詰まった、丸々とした腹の重みを支えるために四つん這いになり、とめどなく沸き起こる苛立ちを唸り声という形で発露させていたが、陽が少し傾いた頃、彼の肉体に劇的な変容が起き始めた。最初に変化したのは下半身であった。ぜい肉に覆われてなお細かった貧弱な足腰が、粘土を貼り付けたように横に膨らむや否や、太く、筋肉質な剛脚に変質し、スーツの脚衣を張り詰めさせた。続いて上半身が伸びた。胴が一回り太くなりつつ上に増えてゆき、それに伴い、椎骨がゴリュゴリュと凄まじい音を立てながら追加構築された。上進する胴と反対に、腕は下へ細長くなり、地面へ届く猿臂(えんぴ)となった。爪は数秒のうちに鋭く伸び尖り、手の爪は空気を切り裂き、足の爪は革靴を突き破った。三メートルの高みに届いた男の顔頭もまた、劇的に急変していた。両側頭部に残っていた毛髪が、水牛の角を思わせる形に伸び固まったのみならず、赤い目がひし形に吊り上がり、瞼はいかめしく垂れ、上下の前歯の一部が牙として伸び、怒気の化身のごとき容貌となった。怪物は力任せに白いスーツを引き千切り、凄まじい地団駄を踏んだ。  男の急成長と急変は、食らった熊の血肉を利用したものであるが、常人が仮に一頭の熊を平らげたとしても、同様の成長は不可能であろう。なぜ彼には成し得たのか。既にお気づきの読者もいるだろうが、「鬱憤の永久機関」による効果である。絶え間ない怒りの念を生み出す、人智を超えたシステムが男の内面に生まれたことにより、心と相互に影響を与え合う肉身・臓器も、その精神性に呼応し、超人的な消化吸収能力、成長能力を発現させたのである。  さて、ここで翻って、公園の外で何が起こっていたのかを述べておく必要がある。男が暴力を振るいに振るった午前中、人食い熊の目撃情報があったとは言え、大半の市民は仕事へ行かざるを得ず、したがって、職場へ向かうために公園の外の歩道を歩く者も現れていた。そういった者達の中には、樹木の隙間から熊を発見し、それと同時に、荒れ狂う男と熊との戦いを目撃した目ざとい人間も混ざっていた。物珍しい映像をインターネットで世界中に共有すれば、手軽に人々の注目を浴びられるこの時代である。異変に気づいた人々はにわかにスマートフォンを朝の運動場に向け、衝撃的なぶつかり合いを覗き撮りし始めた。 二  同日、午前一三時。   都内某区にそびえ立つ、警視庁本部庁舎の一室。一時的に照明の落とされた小さな会議室で、職員達の視線を独占しているのは、スクリーンに映し出された映像であった。お世辞にも映画みたく高画質とは言えないその動画は、しかしどのような映画よりも奇妙な光景を記録していた。痩せぎすで、頭の禿げた、いかにも窓際社員といった風体の中年男性が、目を血走らせ、槍のような棒を武器に、大熊を討ち取り、マウントを取って一方的に殴り付け、熊と口付けし、毛皮や骨もろともその肉を食し、ほとんど残さず食らい尽くすと、三〇分もしないうちに、その体を巨大化させ、おどろおどろしい形相と、黒い角を持つ、短足長胴の鬼に変身したのである。 「SNSで投稿された動画を、何本か繋ぎ合わせたものです。投稿者同士に親交は無く、口裏を合わせてフェイク動画を投稿したという可能性は低いです。これからより詳しく確認しますが、周辺の建造物や遊具の種類、配置から推測するに、——区の第三公園と考えられます」  急遽一室に集められた重役達は、集合をかけた警視、沼田の一言に対し、クスリと笑した。B級怪物映画の予告映像であるとしか思えないこの映像を、まさか、本物と思っているのではあるまいな、と言わんばかりの嘲笑であった。沼田にとってこの反応は想定の範囲内であり、彼女は淡々とタブレットを指で擦ると、別の動画を再生した。 「一五分前に、スナッフムービーのサイト、いわゆるグロサイトに投稿されたものです」  同じ公園であった。化け物のもとに、若く利発そうな警察官が拳銃を構えながら近寄り、何かを叫んでいる。遠巻きに撮影されているので、言の内容までは分からないものの、おそらく投降を促しているのだろう。鬼は自分の半分ほどの大きさもない警官を一一瞥(いちべつ)瞥すると、長い腕でなぎ払った。画面から青年の姿が一瞬消えたかと思うと、どさり、物が落ちる大きな音。撮影者の近くで鳴ったということだ。重い音の方へカメラを向けると、そこには——。 「正人!」  会議室の後方に座していた一人の重役が突然立ち上がった。彼は先の怪映像を見た際、最も嫌らしく笑っていた者の一人である。彼のポケットで携帯電話が震える。恐る恐る応答する。数秒後、死体のように青ざめた顔の父親が一人、部屋を出た。先程のヘラヘラとした空気から一転、会議室は騒然とした。 「最初から信じてくれりゃ、この映像は見せなかったのに……キャリア組ってのは自分の近くに危機が及ばないと動かんから困る」  沼田はその呟きを、動画の音声に紛れさせ、まつ毛の長い冷ややかな目で、老人達を眺めた。 「……で、どうやってこいつを処理しましょうか。お偉いさん方」  腹を括った重役達が、沼田の言葉に真剣に頭を回す。現行犯逮捕をしようにも、あの身躯と怪力は、警察官が束になっても敵うものではないだろう。機動隊ですら手を焼くはずだ。では説得するのはどうか。どうにかなるとはとても思えない。歯向かうものに見境なく危害を加える鬼の性分は、二本の動画で嫌と言う程理解できた。そもそも、一時的に逮捕ができたところで、どこにあの巨体を留置するのか? 「内閣にかけあって、自衛隊を動かしてもらえば……」 「しかし、近隣住民が万一砲撃にでも巻き込まれてみろ」 「そんなことになる前に、あの鬼が住民を全滅させてもおかしくないぞ」 「兵器であいつを殺せるんですか?そもそも」  喧々と議論がなされるも、決定的な策を発見することは出来ず、結局、公園近隣の住民に避難を呼びかけるという、根本的でない方策が定まるのみに終わった。沼田は不穏な余韻の残る会議室を、見限るように後にし、靴裏をカツカツと鳴らしながら自らのデスクへ歩を進めた。  沼田昭実(ぬまたあけみ)。大学卒業後、巡査として警察官の職に就き、齢三〇にして警視の座にまで上り詰めた、屈指の切れ者である。問題解決・地位向上の為となれば人道を無視した手段も辞さない姿勢から、その清廉な美貌とは裏腹に「底なし沼」と言う二つ名を付けられている。 三  鬼と化した男と警察の膠着状態に転機が訪れたのは、九月下旬のある日、南方で発生した大規模な熱帯低気圧すなわち台風が、関東地方に上陸した日であった。雨の降り始めた時分、昼前であるにもかかわらず、濃灰色で分厚い陰暗な雲によって、都市は逢魔時(おうまがとき)のような雰囲気をたたえていた。建造物の窓は()りガラスをはめたように濁り、人々は鋭利な風の音に怯えていた。間も無く雷鳴が轟き、小雨は豪雨となった。地面へ叩きつけられた雨粒は各所から地下へ流れ込み、合流し、汚水と混じり合い、マンホールや側溝を通して地表へ逆流する。街路の全てが生温い水溜りと化したのも束の間、激しい大風まで起こる。コンビニエンスストアの前に立っていた登り旗が軽々と吹き飛び、四角く整形されたセメントブロックが揺れる。  警視庁本部庁舎内。自動販売機が設置されている小区画を抜け、沼田は物憂げに窓外を眺めた。遠くに見ゆる街路樹の葉が、風の形を示すように揺れている。手入れの行き届いた長い指が小さな缶の摘みに引っ掛けられたまさにその時、彼女は空に一本の細い線が引かれたことに気がついた。地面から伸びたその黒い線は、次第に太くなってゆき、高層ビルの合間をうねっている。  沼田の眼に悪どい光が射した。あの大竜巻は使える、「やつ」の処理に。そう気づくや否や、彼女は黒光りするスマートフォンを手に取り、人物の内線と繋いだ。 「はい、こちら田野本(たのもと)警部補」 「警視の沼田だ。お前今どこにいる?」 「沼田警視、おはようございます。本官は今庁舎内におりますが、本日は午前上がりでして、間も無く退庁……」 「窓から竜巻見えるだろ?」 「……うわあ、これはとんでもないですね」 「悪いけど、あの竜巻に、車で突っ込んでくれないか?」 「は?」 「第三公園のバケモン、お前も知ってるだろ。あいつを誘導してあの災害に近づけられれば、事故死ってことで法的手続きを取らずに殺せる。今がチャンスなんだよ」 「……」 「今はあの運動場から出ずにじっとしてるが、いつ気が変わって街を火の海に変えるか知れん。市民のために命を賭けて鬼退治するんだよ。警察官としてこんなに名誉なことは無いだろ?」 「……お言葉ですが警視、その指示はあまりにも人命を軽視しています。そもそも、そのような捨て身の攻撃を引き受けるほど、本官は貴女と親交が深くありません」 「そうか、残念だなあ。……ところでさ、今年入ってきたキャリアの西村ちゃん、べっぴんさんだよなあ」 「!」  電話越しに鳴る、狼狽の呼吸音。 「お前知ってたか?カノジョこの前下着ドロにあっちゃったんだって。めちゃくちゃショック受けて一週間仕事休んでたよ。可哀想になあ。顔が良い子は人生楽だなんて言うけど、あながちそうでもないって感じだ」 「な、なぜ今その話を」 「更衣室にカメラ仕掛けて、写真ももう現像してんだよ」沼田の語気が荒くなり、威圧感が増す。「私の言う事聞かなかったら全部バラ撒く。いっぺん自分の目で確認するか?知らずに撮られたTさんの間抜けヅラをよ」 「脅迫ですか……警視正ともあろう人が」 「ほざいても情けないだけだぞ。あのな、私と言うゲスに利用されちまうような性犯罪者に、自分から成り下がったのは誰だ?お前だろ。田野本」 「くうぅ……」 「そして、失脚からお前を庇ってやろうとしてるのは、どこのどいつだ」 「……沼田警視です……」 「よし、じゃあ、お前は今日、仕事終わりに、偶然、ドライブに出かけ、気の迷いで、第三公園を通ってあの角野郎を挑発し、たまたま、竜巻の方に走っていってしまい、化け物と共に竜巻に接近しちゃいそうだな?」 「はい……」  田野本の声は消え入りそうなほど小さい。 「んじゃよろしく」女の喋りが急に朗らかになった。「運良く自分だけ逃げられたら、お前の弱みは黙っといてやるよ。ただしバケモンほっぽって逃げたら、バラ撒く。それを忘れんな」  相手を意に介さず電話を切る沼田。その後ものの数秒で手に持っていた缶コーヒーを飲み干すと、口角をニヤリと吊り上げながら、地下の駐車場へ向かった。自家用車を出そうとしていた、竜巻に近寄るために、「誘導役」が仕事を放棄していないか監視する為に、鬼に相対する為に。  自分の立っている場所に「第三公園運動場」という名前が付いていることを、男は知らなかった。しかし、彼は悪魔のような姿に変貌してのち、この場所から離れなかった。それは、都市部に不相応な静けさが、妙にしっくりくるが故であった、また、移動するのではなくその場で暴れることによって、消えない苛立ちを効率的に発散しようとしているが故でもあった。いずれにせよ、周囲の人間の危惧の割には、彼が都市に及ぼした被害は小さかった。公園内部に踏み込んで動画を撮ろうとした配信者が餌食になる事件が一件起こったが、せいぜいがその程度であった。  その日、男はやけに落ち着いていた。普段のように、溢れ続ける怒りに誘動され、眼前を飛ぶ子虫を全力をもって殴り、ただそこにあるだけの地面を蹴り付け、空を流れる鳥に吠えることは無く、空を()めつけていた。樹木がいやに激しく音を立て、生物の存在感が異様に薄い。彼の中に完成した「鬱憤の永久機関」と、それに伴う肉体の特殊化によって、男の五感もまた鋭敏化しており、その敏感が、気圧の急激な変化を無意識に感じ取っていたのである。大雨が降り出し、暴風が吹き荒れてもなお、怪物は瞬き一つせず、真っ赤な眼と口を禍々しく歪ませて天を見つめていた。 「お、おらぁ、かかってこいよデカブツ、この野郎」  安い挑発が男の耳に入る。運動場の端にいる、小さな何かが言ったと分かった。程度の低い侮辱ではあるが、怒れる鬼の逆鱗を刺激するには十二分であった。太短い健脚を素早く動かし、猛走する怪物。声の主、田野本は大慌てでパトカーに乗り込み、膝の震えをこらえながらアクセルを踏んだ。公園の側には住宅街の細い道路しか引かれておらず、タイヤのホイールやヘッドライトが建物と擦れ合った。知ったことか。住民は現在避難しており、万一物が壊れても自分の責任は問われない、警部補は車や周辺環境が傷つくことよりも速度を重視した。彼はしばしばバックミラーを覗き、黒い角の鬼がこちらを追いかけていることを確かめた。こちらの位置が向こうから捕捉しやすいよう、サイレンは鳴らしたままにしていた。自らを死の危険に晒すストレスにより、彼の胃の腑は握り締められたような痛みを発していた。  パトカーは国道に出た。その時ようやく田野本は、この激雨の中にあってワイパーを起動していない事に気がついた。車の通りが少なかったことは、怯える運転手にとって幸運であった。都営のバスを凄まじい速度で追い越す。バックミラーを確認せずとも、自分の後を追う者の存在は分かっていた。当然である。サイレンの音や、窓ガラスを叩く雨粒の音に、あの足音が混じっているのだから! 「あっ……」  気付けば、パトカーから五〇メートルほど離れたところで、巨大な風の塊が上方に渦を巻いていた。地面に落ちていたゴミが舞い上がり、田野本の滲む視界をより妨げる。地面が音と共に規則的に揺れている。竜巻に突っ込めば、怪物も死ぬが彼自身も死に至る。竜巻から離れたところで車を止めれば、怪物に殺される。あの恫喝に屈した時点で、自分の運命は決まっていたのだ。アクセルペダルに力無く乗る足の自重が、車をノロノロと前進させた。怪物の足音が、パトカーに追いついた時、警察官は泣き叫ぶでもなく、怒るでもなく、鼻水と、言葉にならない震え声を漏らしていた。アウアウアウアウアウ……。  ガラ空きの道路で車を飛ばしていた沼田が、丁度田野本を発見した時、鬼は、徐行しているパトカーをとび箱のロイター板のように踏みつけ、勢いそのままに跳躍した。四メートル強の巨体が、それよりも遥かに大きな竜巻に飲み込まれる。 「地獄でまた会おう、田野本警部補、いや、田野本警視」  沼田は口紅を塗り直し、つぱつぱと唇に馴染ませてから、独言を漏らした。  自らを苛立たせる甲高い音を追いかけていたら、やかましく暴れ回る風に遭遇したので、攻撃したところ、体感した事の無い衝撃に全身を蹂躙されている……怪物の脳裏に、久々に、困惑という感情が復活した。竜巻に押し上げられた怪物の肉体は、急激な気圧の変化による影響を様々に受けた。頭に血が昇り、禿げた額が赤く膨張した。呼吸が浅くなり、手足の先端の感覚が麻痺し始めた。しかし、凄まじい痛手を負わされ、黙って(たお)鬼ではない。前代未聞の負荷によって、彼の内面の「鬱憤の永久機関」もまた、今までに無い回転を見せた。目に映るもの、耳に聞こえる音、肌に触れる感覚、鼻腔に入る臭い、舌に感じる味、風や雷、そしてその轟音、飛来する石や木枝の鋭い痛み、四方八方へ肉体を引き裂こうとする、凄まじき慣性力、生温かい汚水の臭い、内臓から口へ逆流してきた、鉄臭い血……全てが彼の憤怒を加速させた。男は己の内に爆ぜる感情に操作されるがまま、竜巻への八つ当たりを始めた。長々とした腕を振り回し、太短い脚で蹴り散らかし、空気の激流に抗った。凄まじい速度で繰り広げられる孤独な格闘。手足の動きが怪物の周りに作った残像は、彼を一つの、極まった怒りエネルギーの球のように見せた。  鬼から少し離れた道路の側に車を停め、田野本の誘導をどのようにして自分の手柄に仕立て上げるか、腕を組んで思案していた沼田。突如、竜巻の音とは異なる爆発音が横から鳴り響いた。彼女は咄嗟に細い腰を曲げて伏せるが、高級車へぶつかってきたのは風と落ち葉のみであった。窓の外には、力を一度に使い果たし、四肢を広げて落下する怪物の死体と、雲を無理やりこじ開けたことで現れた、小さい青空があった。竜巻は消えていた。沼田は車から飛び出、周りを見渡す。建物の窓から、怯えていたであろう人々が顔を出し、自然現象を相殺した怪物に、輝く瞳を向けていた。女の艶やかな唇が、冷笑の形に変わる。 「なんだあいつら……ヒーローでも見るみたいに……」
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