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生物ヲタとの時間
「さあ、こちらへどうぞ」
座禅修行、という訳でもないが、体験が終った。お坊さんが、わたしと見知らぬ男にお茶とお菓子を出してくれた。
「どうでしたか? かなり雑念が浮かんできていたようですが」
「え、ええ。色々と、悩みがあるもので」
「悩み……。悩みのない人間などいませんから。例え、お金をたくさん持っていても、その人にだって悩みは尽きません。お金がなくなったりはしないか、泥棒に入られたりしないか。心配で心配で、たまらないものです」
さすが、お坊さんの言うことは、説教っぽい。当たり前か。
わたしは、マスクの下の方を軽く持ち上げ、茶をすすった。
隣の男が、割って入った。
「しかし、悩みを持つということはある意味で、生きているという証拠でもありますからね。それは人間という高等な生物にしかできないものです。無論、宗教的見地からではなく、あくまで生物学的な見地ですけどね」
ズズーっとお茶をすすりながら言った。
なに、この人。生物学とかなんとか。
その筋の人なのかしら。
「その、心配な自分を、忘れることができるのが禅と言うものなのです。数を数えるという単純な作業。そして、最後の方は足が痛かったでしょう。その時、自分の悩みはどこに行ってしまいましたか?」
そういえば、そうだ。
私は、足が痛くて痛くてしょうがなくて、ヒゲのこととか、オス化症候群のこととか、忘れてた。
彼が、うなずきながら口を開いた。
「そういえば、そうだな。人間は、同時多発的に物事を考えることができるようには、設計されていない。携帯電話で話をしながら運転をするということもあるが、あれはテレビを見ながらしゃべったりするのと同じで、惰性と惰性の組み合わせですからね」
この男、イチイチ理屈っぽいというか、口数が多い。
「脳は、常に活動しています。寝ている時も。休む時がありません」
「へえ、そうなんですか。寝てる時は、脳も寝てるんだと思ってました」
お坊さんは、意外にというか、色んな事を知っていた。最近のお坊さんは、やっぱりネットとかで情報を仕入れているんだろうか。
「禅を組んだら、頭がスッキリしたでしょう」
言われてみれば、そんな気がする。
「人間はいつも、雑念に追われています。その雑念にとらわれているから、本来の自分が分からなくなっている。その雑念を取り去るのが、禅と言うひとつの方法なのです。楽しいことに集中していると、嫌な事を忘れるでしょう。あれと同じです」
お坊さんの言うことは、難しいけど、何となく分かるような気がする。隣の男は、壊れたかと思うほど、しきりにウムウムとうなずいている。
「そうか。人間の意識を自己の呼吸を数えるという一点に集中させることによって、その他の煩雑な思考から解放せしめるというのが、禅を組むという事の目的なのか。あるいは、足の痛覚に意識が向くと言うことによって、脳の思考回路を痛覚に向けさせ、雑念を意図的に忘れ去らせると言うことなのか」
ボソボソ言った。簡単な事を、難しく言うのが好きなのかしら、この人。でも、お坊さんは笑っていた。
「あはは、そうかもしれませんね。要は、禅を組むことだけに集中すれば、他のことは忘れるということです」
「むう、極論するとそうなるのか。こりゃ、一本取られましたね」
男が、ぎゃふん、と言ったような気がした。わたしは、おかしくて吹き出してしまった。
「あはは。意外に、素直なんですね」
「は? なんです? ご住職は、この複雑な脳神経回路の伝達組織を、たったひとことで言い表してしまわれたのだ。それは見事ではないですか」
それを聞いていたお坊さんも、あはは、と笑った。
「な、何がおかしいんです」
男は、顔を真っ赤にして膨れた。それがまた、子供みたいでかわいかった。小難しいことを言う割には、案外、純粋なのかもしれない。
楽しかった。久しぶりに、心の底から楽しいな、と思った。
気が付けば、あたりが赤く染まっていた。もうこんな時間なんだ。
「さ、おふた方。閉門の時間です。きょうは、ようこそお参りくださいました」
「きょうは、ありがとうございました。最後に、記念に写真を撮ってもらって良いですか」
「写真……。では、小僧さんを呼びましょう。おうい」
はぁい、という幼い声が返ってきた。
「おとう、いやご住職、何の御用でしょうか」
小学生ぐらいのクリクリの男の子だった。
「この方達に、写真を撮ってあげなさい」
一休さんが現実にあらわれたみたいなこの子が、わたしのデジカメを構えた。お坊さんを中心に、わたしと、あの男の人が並んでカメラに収まった。
「はい、ボーズ」
お坊さんにしかできないギャグで、思わず吹き出してしまったところをパシャリ、と撮られた。きっと、いつもこの手で笑わせているんだろう、と思った。でも、黙っておこう。
「ありがとうね」
いい写真が撮れた。きっと、いい記念になると思う。
私と、あのややこしい男は、行きがかり上、2人で山をくだっていた。
「と、とりあえず、自己紹介するわね。わたしは真坂真琴。東京で食品会社のOLしてるの。あなたは?」
「あ、東京なんですか。ぼくもです、住んでるのは横浜ですけど。名前は星仏好成星仏好成(せいぶつ・よしなり)です。帝王大学の生物学部で准教授してます。みんなからは、生物ヲタク、生物ヲタって呼ばれてますけどね。あはははは」
星仏さんの笑い顔は、子供みたいに無邪気で、屈託のない笑顔だった。
「えっ? あなた准教授なの? 随分若く見えるけど」
自然と、私も笑みがこぼれた。
「ええ、こう見えても、もう35ですから」
「35って、わたしと同い年じゃない。凄いわね」
「そ、そうですか? 別に凄くはないと思いますが……アンチエイジングの研究もしていますからね」
「へぇ……。私の会社でも、そういう飲料の研究してるんですよ!」
「そうですか。それは奇遇ですね。それはいわゆる仏教でいう『ご縁』ってヤツですかね」
「え? それは、運命だったってことですか? あはは、まさか。単なる偶然ですよ!」
なんていう、たわいもない、どこにでもあるような会話をしながら、嵐山の嵐電駅へと向かった。
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