絶望の中からの電話

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絶望の中からの電話

 しばらく、茫然自失としてその写真を眺めていた。こんなに泣いたのは、生まれて初めてだった。悲しいのでもなく、嬉しい訳でもない。理由は、分からなかった。 「ひょっとして、わたしは何か、大事なものを忘れていたのかもしれない」  良い学校を出て、良い就職をする、そういう価値観で育てられ、そしてその通りにしてきた。でも、それって、本当に、わたしにとって幸せだったのだろうか。  会社では、それなりに信頼も得て、重要な仕事も任せられ、楽しくやってきたつもりだった。  でも、社会的な成功と、楽しいことと、幸せだってことは、本当は違っていたのかもしれない。  そして、36歳の誕生日を前に、原因不明の難病にかかって、男になる運命が待ち構えている。  泣きながらわたしは、これからの人生を考えて、鏡を見た。  やっぱり、ヒゲは生えてきてるし、声も低い。  胸も、やはり小さくなってきている。 「男になったら、今の会社は辞めなきゃいけないわね」  急に、現実が襲ってきた。心が沈んだ。ある日突然、いままで女として生きてきた人間が、男になる。行方知れずになった患者もいたとか。そういえば、戸籍はどうなるんだろ? 「両親や友達とも、二度と会えなくなるわね……」  性転換したわけでもないのに、男になってしまう。つまり、女としてのわたしは死に、新しい男としてのの人生が、始まるってことなんだ。急に、寒気がした。 「でも、心は女のままだから、結局わたしはオナベってことになるの?」  訳が分からなくなった。生まれつきのオナベじゃないのに、後天的なオナベって、どうやって生きて行ったらいいの?住んでるところも、変えなきゃいけないのかもしれない。  性別が変わるって、すごく大変なことだって、気付いた。  そしたら、急に絶望的になった。    わーん、わーん、わーん  私は、さっきとは違う気持ちで泣き始めた。今度は悲しい、絶望的な涙だ。京都に行ってみて、幸せって何か、ほんの少し分かり始めたけど、恵田先生が言う、「心の底から幸せだと思う」ことは、多分できなかったんだと思う。  さっきの気持ちとは違う気持ちで泣いていた、その時。  ブルルルル、ブルルルル  携帯に着信があった。 (だれ、こんな夜遅くに)  電話番号を見てみると、あの星仏だった。 「も、もしもし?」 「あ、京都でご一緒した星仏です。夜遅くにすみません。もう、東京に帰られましたか?」 「え、ええ」  わたしは、涙声だったから、あまり話したくなかった。でも、すぐ気付かれた。 「あれ? なんか、声がおかしいですよ。ひょっとして、泣いてるんですか」  相変わらず、デリカシーのカケラもないヤツだ。 「な、泣いてなんかないですよ。何ですか、こんな夜遅くに、突然」  少し間があって、星仏は切り出した。 「い、いえ。ごめんなさい。なぜか、急に声が聞きたくなって」  意外だった。生物学オンリーの生物オタクだと思っていたのに。 「いま、京都の大竜禅寺で撮った写真を見ていたんです。そしたら、なにかこう、いままでに感じたことのない気持ちが込み上げてきて、つい、そのぅ。教科書とか、インターネットでも調べたんですが、載っていないんです。表現のしようがない気持ちで」  なんだか、不思議な気がした。この人って、生物学以外に興味がないと思ったんだけど、そうでもないのかな。 「それで、私に電話してきたの?」 「そう、なりますかね」
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