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イヤな上司とか影の薄い部下
神田駅で降り、いつものようにオフィスに滑り込んだ。8時50分。間に合った。わたしの棲む広報室は、いつもと同じ景色だった。
「おはようございます……」
「おや、真坂くん。風邪かい?」
上司で室長の森河村徳男が、わたしの顔を見てソッコーで聞いて来た。
社内の全OLに嫌われている曰くつきの上司だ。
ラグビーだかアメフトだかをやっていて、マッチョなのをやたら自慢して体を接近させて来る。
「あ、いえ。ほら、また流行ってきたじゃないですか。予防ですよ、予防」
何となくそう誤魔化すと、森河村が顔を近づけてきた。
吐きそうなほどキモイ。
「おいおい、大丈夫か? また、ひとりで新橋あたりに遅くまで飲みにでも行ったんだろう? 良くないぞ、女が独りで飲むってのは。今度、付き合ってやろうか?」
山下はヒヒヒ、と笑った。女性のプライバシーを気にしない。ひと昔前の上司だった。
いつも、イラっとさせられる。
「室長、奥さんいらっしゃいますよね。そういうことを女性に聞くのは、セクハラになるんですからね。いまのは、れっきとしたセクハラに相当しますから!」
いつもよりも、きつめに言った。森河村は、ふん、と鼻で笑った。
「不都合な事を聞かれると、すぐセクハラだ……。まったく嫌な世の中だよな」
「……世の中のせいにしないでください」
テメー、奥さんいるくせに、口説いてんじゃねーって思う。
いつものことだ、無視しようと決め付け、私は気にせず席に就いた。隣で、入社3年目の部下、山平典夫がメールチェックをしていた。気が弱いのが特徴だ。
「お、おはようございます。風邪? 花粉症? 大丈夫ですか?」
と、蚊の鳴くような声で言った。
(もうちょっと大きな声で言えないのかしら、最近の子は)
「大丈夫よ、また流行ってるじゃん。だから、予防よ、予防」
いつもと同じ、1日が始まった。
ただ、1つ違うことがある。
わたしの心と身体だけが、違った。
わたしは大手食品会社で広報の仕事をしている。上司の森河村と、なんか影が薄くて煮え切らない後輩の山平くん。
広報の仕事というのは、いわば会社の顔的な存在。広報のイメージが、そのまま企業の顔になる。いまはマスクで顔を隠せるからいいけど、いつまでも顔を隠して仕事をする訳にはいかない。
「真坂くん。早く治してくれよ。キミの美人が台無しだからな」
森河村が、ねちっこく絡んでくる。
(だから、余計なお世話だって。キモイから近寄るなって)
月曜日の午前中は、たまってた顧客や取引先からのメールチェックに、消費者からの問い合わせ、マスコミ対応などで、いつも忙しい。時間が過ぎるのが早い。
仕事を片付けながらも、私の頭の中は、朝起きた出来事がずっと離れなかった。
(なんで、おじさんみたいなヒゲが生えてんのよ? 見間違い? 産毛が太くなってきた? ホルモンバランスの影響?)
色んな事を想像してみた。当然ながら、答えは見つからなかった。
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