タコ野郎と黒服男

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タコ野郎と黒服男

 興奮が冷めると、あとに残るのは虚無。 「……何この展開。これじゃあ、まるでぼくが――」 「あちゃー、完全に振られましたね、タコ野郎」  同情しているのか、罵っているのか……そう桜は言うのだった。 「振られ……え、タコ野郎? 凪先輩じゃなくて、タコ野郎……?」  現実から逃げるためには、タコ野郎というキーワードにも食い付く凪。 「遠山氏、さては馬鹿野郎か? 告白する度胸があるのなら、あいつを追いかけてやるガッツがなくて、一体どうするというのか」  凪を一気に現実に戻したのは、彰人の冷ややかな言葉だった。 「あ……やっぱり追いかけたほうがいいのかな」  プッツンとキレたらしい美麗は椅子から立ち上がると、そばにあった椅子を持ち上げ、その椅子を振り回しながら叫んだ。 「意気地なしか、貴様は! 乙女に恥をかかせたまま、生きて自宅に帰れるとは思うな、思うな……祟ってやるぞ、一生だ!」 「怖い……です。追いかけますから、すぐに行って戻ってきますから、まずは落ち着いてください、竹原先生」 「すぐさま逝ってこい、遠山。ただし、一人ではここに戻ってくるな。乙女心を舐めるんじゃない……ナメルンジャナイ!」 「ヒエッ……」  危機的状況の中、凪にはひとつだけ分かったことがある。  今年で三十路になる独身女性の愛すべき担任教師の婚活は、何もかも上手くいってないことに。  凪は美麗が振り回す椅子に当たらないように教室から出ると、ドタバタと足音を立てながら廊下を走った。  教室のほうで美麗が「廊下を走るんじゃない、遠山ぁ」という不条理な怒声を聞き、凪は一度立ち止まり、教室のほうをにらんでから、構わずに廊下を疾走。  階段を駆け下り、昇降口にたどり着くが、そこに奏はいない。  どこに行った、と凪はさらにパニックに陥るが、昇降口にはもういなく、校門のほうにいるのだと、混乱する意識の中、考えた。  そうと決まれば、と凪は上履きから靴にも履き替えず、まだまだ風が吹きすさぶ外に出た。  風の強さに負けそうになりながらも、凪は風に抗いながら、遅めのスピードで校門目がけて走った。  校門にたどり着くが、それでも奏はいない。  自分でも何をやっているのか分からなくなり始めたが、それでも凪は息を切らしながら、上履きのまま道を走った。  学校から少し離れた場所で、凪は奏を見つけた。  どういうことか、彼女は停車中のシルバーのセダンの中の助手席にいた。  なぜ、と思考停止しそうになる凪。  その凪の目に映ったのは、車内の運転席に座る三十代そこそこのハンサムな黒服男。  一目で凪は察した。  これは誘拐だと。  助手席にいる奏と凪の目が合った。  奏は目を見開き、一度黒服男に何かを伝えてから、車から降りた。 「上履きのまま、ここまで追いかけて……一体どうしたというのだね」 「……今のきみに一番必要な存在が何か、教えてあげようか?」 「ふむ? むぅ、それはなんだろうか」 「うん、それはね……」 「むっ? そうか、分かったぞ! ぐっ、なんでこんな簡単なことに気づかなかった、わたしは……ふふふ、さては教育委員会だな?」 「謎の黒服男に車で誘拐されかけているであろう、きみを救う通報者……そう、ぼくだよ」 「ん、教育委員会はきみで、きみは通報者でありながら、誘拐犯? そんでもって、わたしは……黒服男、か」  奏はしきりにうなずいたかと思えば、凪に哀れみのまなざしを向けた。 「大丈夫だ、遠山くん。きみもいつか絶対、わたしをあっと言わせるような変人になれるよ」 「うーん……こりゃダメだね。変人には、凡人の言葉は理解できないのかもしれない」  そう凪が諦めかけた、そのときだ。  停車中のセダンの運転席のドアが、ゆっくりと優雅に開いた。  ハンサムな黒服男の……誘拐犯のお出ましだ。  誘拐犯は革靴で砂利を踏みながら、凪たちに近づいてきた。 「やれやれ、専属運転手のこのわたし、喜多裕貴(きたゆうき)をコケにするのはやめたまえ、きみたち。  コケティッシュさの欠片もない奏くん、それから……遠山凪くん、だったかな」  誘拐犯の裕貴が凪の名前を知っていることに動揺する凪だが、再度裕貴から「遠山凪くん」と名前を呼ばれたことで、反射的に「はい」と返事をしてしまった。 「なんというのだろうな、失礼ではあると思うのだが……きみは実に滑稽だ」 「はあ。滑稽、ですか」 「率直に言おう。きみは上履きのまま、普段外を出歩くのかね?」 「……浅はか、そう、浅はかです。緊急時というものはですね、誰も彼もが時間を惜しいと思うはずです。ぼくはそんな彼らの代表者として、このアスファルトに立っています」 「そうかね」 「ずばり」  もうどんなトンチンカンなことを言っても、自分は恥じることはないだろうと、凪は思った。  それと同様に、目の前の誘拐犯と思っていたこの男……誘拐犯ではない可能性が強まってきた。  裕貴を見上げる形で、凪は彼に尋ねた。 「あなたは誰ですか?」  裕貴は口元を歪めて笑うと、胸ポケットから手書きと思われる名刺を凪に向かって差し出した。 「わたしは北埜奏くんの専属運転手であり、彼女の許嫁の……喜多裕貴だ。とまあ、なんだ、よろしく頼むぞ、凪くん」
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