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第一章 青春サークル「えっち会」 洗面化粧室の攻防
二〇二三年、四月十四日の金曜日。
それは曇り空ひとつない、暖かな春の日射しに恵まれた日のこと。
滝灘中学校一年二組の東堂志貴は、同級生の大宮幻冬とともに、一世一代の大勝負に出た。
本日、午前七時四十分――滝灘中学校二階にて、志貴と幻冬はある作戦を決行。
それは「可憐なる乙女たちの心を射止めろ! 爆誕せよ、えっち会作戦」
略称は「乙女たちのえっち会作戦」と呼ばれる作戦だ。
志貴は「えっち会」と誰かに言うたび、いつも思うことがある。
どうして全員が全員、略称の「えっち会」をいかがわしい会だと思ったりするのか。
「えっち会」とは、学校非公認の青春サークル「えっ、わたしたちは青春が好きだけど、あなたは違うんです会」の略称。
リーダーや活動内容や規則もまだ決まっていない「えっち会」だが、そもそもの話、まだこの青春サークルは創設されていない。
なぜなら、「えっち会」は女性が加入することで初めて創設されるのだから。
そんな胎児のような青春サークルは、もっとこう大事にされるべきである。
……などと、志貴は女子トイレ内の洗面化粧室で、ふと思った。
志貴はチラリと後ろを見る。
志貴の背後、そこには「七三分けの大馬鹿野郎」と同級生から忌避される学ランを着た幻冬がいて、彼は大きな声で笑いながら、誰もこの場所に入らないよう、廊下と洗面化粧室の境目にあるドアを押さえつけていた。
最初、志貴は彼の姿を勇ましく思っていたが、冷静になっていくにつれ、勇敢な彼の後ろ姿は、今や変態の後ろ姿にしか思えなかった。
そして今、志貴の目の前では栗色の制服を着た同級生の女子生徒二人、完全に引いた様子のショートヘアの浜崎羅奈と、完全に冷ややかな笑みを浮かべたミディアムヘアの工藤冬華がいて、志貴と彼女たちは対峙していた。
ふだんは穏やかなまなざしの羅奈だが、今の彼女のまなざしは氷の刃を彷彿とさせ、志貴を震え上がらせた。
いつもは柔和な顔で笑っている冬華も、冥界の使者のような冷たい笑みで志貴を見つめていて、志貴の胃をキリキリさせるには十分な効果があった。
そのような状況でも、志貴はすべてを投げ出すわけにはいかなかった。
志貴のため、仲間のため……そして「えっち会」のためにも。
志貴は心を鬼にする。
「ほ~ら、怖くないよ、怖くない。怖くないから、お前ら二人とも、おれたちがいる『えっち会』に入れ。いいな、子猫ちゃんたち。
分かったのなら、さっさとおれたちと連絡先交換するぞ。
ほれ、携帯電話を出せ。ほら、出せよ」
そんな志貴のペースに飲まれないとばかり、羅奈はかぶりを振り、険しい顔で言葉を返す。
「……じゃあさ、こうしようよ。
無理やり女子トイレに軟禁されたボクたちは、携帯電話で警察に通報する。
で、警察に通報された悪者のきみたちはボクたちに懺悔する。
それだけじゃない、きみたちは正義の警察官から厳しい説教を受ける。……うん、その未来だったら、ボクらも救われるよ」
志貴は羅奈が考える酷く恐ろしい未来を聞いて、小さく悲鳴を上げそうになったが、それを寸前でこらえた。
その代わり、志貴は人差し指を左右に振り、羅奈が決めた未来を鼻で笑った。
「ボクッ娘の羅奈よ。……世間はそんなに甘くはないぞ」
悲しいことに、今の志貴の言葉は冬華によって鼻で笑われる。
「キャハハ! ……あーね。けど、それはあんたたちのことじゃん。
こんなことをして、“世間”はあんたたちを許してくれると、本気で思ってんの?
キャハッ、キャハハ! 馬鹿みたい、アホみたい~」
冬華は嫌みたっぷりの言葉で志貴たちをけなし、上機嫌に笑う、笑う、笑う。
志貴はムッとなり、冬華をにらんだ。
けれど、志貴はすぐに自分の使命を思い出し、表情を和ませた。
「ふっ……かわい子ちゃんたちよ。おれたちの青春サークル『えっち会』に入らないか?
今なら、おれたちとの抱擁が無料でついてくるんだぜ。
最高、だろ……? まさに『えっち会』にはふさわしい加入の報酬だ!
――あ、ついでに言うと、お前らが『えっち会』に入ることで、この青春サークルは始まりを迎えるんだ。
最高、だよな……?」
それに対する羅奈と冬華の返事はというと……。
「最低」
「最悪」
「変態」
「変態」
「あのさ、この世に生まれてきて、ごめんなさい、は……?」
「ねえ、きょうまであんたたちを育ててきてくれた両親に、ありがとう、は……?」
「死ね」
「消えろ」
というような、あまりに残酷な暴言の数々だった。
それらの暴言は矢となり、志貴のハートにブスリ、ブスリ、ブスブスと刺さった。
志貴はうめき声を上げ、たまらず胸を押さえる。
これを見た羅奈と冬華は、あきれたようにため息をついた。
ふと志貴は廊下の騒々しさを気にし、思わず耳を澄ませる。
廊下では教師たちや生徒たちが右往左往しているらしく、怒声や悲鳴や泣き声が聞こえてきた。
中には志貴たちの所業に怒り狂うあまり、誰かに喧嘩を売ってしまった者の怒声も聞こえてくる。
志貴は恐怖や不安のため、ブルリと身体を震わせた。
そのとき、笑うのをやめた幻冬は、このように大声で叫んだ。
「ふはは、ふはは……この幻冬め、必ずや、必ずや! このドアを防衛することを約束いたしましょう。
なぜなら、なぜならば……羅奈嬢と冬華嬢は、あなたたちのような者とは青春を送りたくない、と言っているからですよ、下々の諸君。
ほほう……となると、彼女たちが我らの所属する『えっち会』に電撃移籍するのも、当然のこと。そう、当然なのですよ、下々の諸君。
お分かりいただけたでしょうか……この大馬鹿野郎に大馬鹿女郎ども! ふはっ」
ドアの外にいる者たちから、凄まじい野次を受ける幻冬。
だが、そんな野次など、彼は意に介さなかった。
野次が激しければ激しいほど、彼はさも愉快そうに笑うのだった。
と同時に、幻冬は女子トイレ内のドアを防衛し、そのドアを開けようとする教師たちと戦っていた。
さすがは幻冬、と志貴は感心する。
そのとき、羅奈がおずおずと手を挙げた。
「……あのう、ボクたち、教室に戻ってもいい?」
「ああ、それはダメ……え?」
そこで志貴は硬直する。
なぜなら今、志貴は凄まじい殺気を感じたからだ。
それは羅奈と冬華のものではない、と志貴はすぐに分かったし、なんならその殺気とともに志貴は育ったようなもの、というような感覚もあった。
ならば、と志貴は考えた。
考えた結果、志貴はひとつの答えに至る。
志貴は後ろを振り返らずに「なあ、幻冬」と幻冬の名を呼んだ。
この殺気に気づかない幻冬は「どうかしましたか、我が盟友、志貴殿」と爽やかな声で応じた。
志貴は後ろを振り返り、幻冬の後ろ姿を見つめる。
もちろん、生気のないまなざしで。
するとそのとき、幻冬は志貴のほうを見た。
志貴は遺影のための写真を撮るとばかり、ニカッと笑う。
幻冬のほうも、ニカッと笑う。
志貴は笑顔のまま、あることを幻冬に告げた。
「この作戦は失敗に終わるぜ。……おれの姉貴、東堂蓮華によってな」
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