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くらやみの中の自由
夜になれば辺りの景色は一変し、まるで異世界に放り込まれたようだった。
足が枷を付けられたように重い。それでも足を引きずりながら進むしかなかった。一歩一歩進むほど闇は濃くなり、神経は研ぎ澄まされていく。
四月から通い始めた大学は山のてっぺんにあった。道はちゃんと舗装されているものの学生向けアパートやコンビニは山の麓に集まり、麓までの二キロメートルほどの道のりには何もない。
すうと息を吸い込むと水の匂いがした。草むらから虫の音が響く。アスファルトが靴底を少しずつ削る感触に時折小石を踏む違和感が混じる。等間隔に並ぶ街灯の手前から二つ目が不規則に瞬いている。ふと虫たちが黙ったかと思うと低いエンジン音が山の上から転がり落ちてきて、ヘッドライトが僕ごと夜道を一撫でして流れていった。
僕はまだ運転免許を持っていないし麓まで運んでくれるバスは一時間に一本しかない。
暗闇のなかにありもしないオバケを探すほどガキじゃないけれど。
部活とか塾で帰りが遅くなるなんていくらでもあったけれど。
誰も迎えに来ないし帰ったところで誰もいないのは初めてだった。
――また買い食いして。晩御飯作ってあるんだからちゃんと食べなさい。
母親の説教は鬱陶しい。
――おかえり。無視すんじゃねーよダメ兄、挨拶は人間関係の基本。
いちいち挨拶する妹も。
僕は街灯を眺めながら歩く。親の車で迎えに来てもらった時はただ視界を流れていくだけだった灯りを、今は童話の主人公が帰り道の目印を辿るみたいに一つ一つ数えていく。あといくつ通りすぎれば家に辿り着くだろう。別にまっすぐ帰らなくても誰にも叱られないけれど、どのみち僕は誰もいない真っ暗なワンルームマンションへ戻るんだ。
歩けば歩くほど気が滅入る――ホームシックというとなんか恥ずかしすぎるから自分で何もかもしなきゃいけないのが面倒だということにしておこう――からスマホのラジオアプリのアイコンをタップし、ワイヤレスイヤホンを耳に突っ込んだ。
お気に入りのバンドの新曲が流れてくる。
落ち着いたバラードのイントロにつられてラジオパーソナリティの口調もややトーンダウン。さっきまで遠距離恋愛の悩みを吐露するメッセージを読み上げていたのだろう、優しい声音で「頑張ってください」と告げ、そのまま曲のAメロに繋がっていく。
夜闇に沈んだ道は昼間とは雰囲気が一変し、まるで異世界に放り込まれたよう。その感覚は今も、そしてこれからしばらく続くんだろう。
鬱陶しいほど寄り添ってくれた家族は今、特急とバスを乗り継いで四時間くらいの遠くにいる。
これからは僕が僕の孤独と向き合いどうにか気晴らしをしていく。
そしていつか誰かの孤独に寄り添っていく。
僕は独りに、自由になった。
「……腹へった」
僕はとりあえず晩飯の算段を頭のなかで組み立て始めた。ご飯は冷凍したのがあるしインスタントの味噌汁ともやしもある。足りなければコンビニでチキンでも買おう。食べれば後片づけもあるし洗濯物も溜まっている。
面倒すぎて相変わらず足取りは重いけれど。
僕は自由を噛み締めながら山を下っていった。
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