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厳しい義父と優しい義母。学校にも通い始め、帰ったら家の手伝いや修行とまたしても忙しない日々を過ごしていた。
それでも山での生活は忘れることはなく、天狗さんが今でもあの山で一人寂しく暮らしているのはないかと、私はずっと気がかりだった。
それからの日々は語るまでもない。
蕎麦屋を引き継ぎ、結婚をし、子宝にも恵まれ、今は息子が蕎麦屋を継いでいる。
今思えばこうして生きていられるのも、天狗さんのお陰だ。一言の礼も口に出来ないままであることが、ずっと心のシコリとなって私の胸に留まっていた。
息子に店を任せてからは、今度は天狗さんの痕跡を追う為に、私は残りの人生をかけようと決意したのだ。
残念なことに私は疎開したり、親戚の家を移動していた事もあって、あの山の場所が性格には分からずにいた。だから、数少ない記憶を頼りに各地の山を訪れていたのだ。
そして今回、この山が私の琴線に触れたことで、こうして君と向かい合っているという次第だ。
天狗さんはもう生きてはいないだろう。それでも、その痕跡が砂の一粒でも残されているのであれば、最後にそこを尋ねたい。それが私の最後の大仕事なのだから。
全てを語り終えた私は、そこで乾いた喉をコーヒーで湿らせた。
こんなにも長く言葉を発したのは、初めてかもしれない。それに私の過去の話をしたのも、彼だけだった。
「素晴らしいです」
Kが唐突に手を叩いて叫んだ。私も驚いたが、近くにいた主婦たちも、一斉にこちらを見た。
「行きましょう」
そういうとKはグラスの残りを一気に飲み干し、立ち上がった。
何処へと聞こうとした私を差し置いて、Kは伝票も持たずに店の外へと出て行った。
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