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とにかく、急いで制服に着替えて、何も入っていないカバンにとりあえず教科書を詰める。
ゆっくり階段を降りていくと、キッチンのコンロの前に立って、鍋をかき混ぜるおじさんの後ろ姿があることに気がついた。
「起きたか? 早く準備しろよ」
僕の足音だけで、起きたことに気がつく。こちらを振り向きもしないでぶっきらぼうにそう言ったおじさんの声が、何故かとても優しく聴こえて、思わず涙腺に響いてきてしまった。
「……顔、洗ってくる」
カバンを廊下に投げ置き、洗面台へ向かう。
迷いなくどこに何があるのか分かって歩けるのは、僕が生まれた時からこの場所で育ってきたからだ。
必要最小限、きちんと片付けられた洗面台には、おじさんのスペースと僕のスペースがしっかり分けられていた。
体は覚えているもので、フェイスタオルをしまってある棚から一枚取り出してから、冷たい水で顔を洗った。
ようやく頭もスッキリとしたような気はするけれど、まだ状況は良く分からない。とりあえず、昔のことを思い出しているリアルな夢の中なんじゃないかと思うことにした。
懐かしさにじんっとして、泣きそうになるのをグッと堪えた。
あの頃の洗剤の匂いがする。
おじさんのあのぶっきらぼうな態度や、たまに半乾きの匂いのするタオルが酷く嫌だったのを思い出す。
今の僕の生活からしたら、比べるまでもなくキチンとしている。お風呂場を見渡せば、ドアと窓を開き、イスや手桶は斜めに掛けられていた。毎日、朝におじさんが掃除をしてくれていたんだと、今更気がついた。
すっかり朝食の準備の整ったキッチンに足を踏み入れると、おじさんは読んでいた新聞を畳んで僕が席に着くのを待っている。
「おはよう、ございます……」
辿々しい言葉で挨拶をしてから、椅子を引いて座る。目の前のおじさんは、ポカンとして僕を見た後に、「なーに、他人みたいな挨拶してんだ。早く食え」と、少し笑ったような気がした。けれど、すぐにムスッとした表情に戻り、味噌汁のお椀を片手に持って啜った。
湯気の立ち昇るお椀を、僕もそっと持ち上げる。わかめと豆腐とネギ。僕が一番大好きな味噌汁だ。
まさか、またこの味噌汁を飲める日が来るなんて、思ってもみなかった。一口、コクリと程よいあたたかさが喉を通っていく。
さっき我慢したはずの涙が、一気に押し寄せてきそうになる。俯きながら、美味しくて、嬉しくて、僕は無言のまま全部を完食した。
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