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山一金物店は、市道で南北に分かれた商店街のうち、北側のなかほどにある。
喫茶店から徒歩三分で戻った悟は、母親の歌子に引き続き店番を頼み、自分は奥の作業場で包丁研ぎに取りかかった。これは最近やっと任されるようになった仕事だ。
使いこまれた刃を慎重に研いでいると、じんわりと汗がにじみ、耳元を覆う髪が首筋に貼りついた。さきほどまでのやりとりを思いだす。そろそろ本当に、床屋へ行ったほうがよさそうだ。
悟が髪を長くしているのは、単に散髪が面倒だからではない。わざとそうしているのだ。あまりボサボサに見えないよう、定期的にカットして毛量などを調整してもらっている。短く整えたほうがよほど手入れがしやすいのでは、と思うこともあるが、まだしばらくは、このままでいるつもりだ。
髪を短くしなくなったのは、些細なことがきっかけだ。
悟が幼稚園に通っていた頃、女の子から絵本の主人公に似ていると言われた。表紙にはくりくりと丸い目をして、耳がぴょこんとたったかわいらしい子猿が描かれている。
女の子はその絵本が好きだったから、きっと悪い意味ではなかったはずだが、悟はとっさに自分の目や耳を隠してしまった。「かわいいのに」と言われても、少しもうれしくなかった。
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