エンギョドンティウムとは

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エンギョドンティウムとは

大変なことになっている。 世界史で赤点を取ってしまった嶽南(がくなん)高校文芸部員カエちゃんは部室で一人、必死で用語集とにらめっこしていた。彼女以外の部員は皆、いつものとおり隣の英語部の部室で、ひたすらトランプをしている。 あと30分。30分経ったら世界史の追試が始まる。 補講と追試というだけで夏休みのスタートを台無しにしたというのに、再補講と再追試ともなれば、目も当てられない。 ここは嶽南(がくなん)高校文化系部活の部室長屋だ。文芸部、英語部、郷土研究部、鉄道研究部、化学部調理班(なぜ料理研究部でないのかという質問はしないで欲しい)、こういった、ぱっとしないというか、青春をイマイチ燃しきれない文化部員が自然に集って、ひたすらカードゲームに興じている場所だった。 ちなみに今ここで流行っているのはスーパー大富豪(命名:英語部のまりあさん)という。単に参加者が多過ぎるため、トランプ1組では足りず、3組使ってプレイしているだけなのだが。ただ、部室長屋トランプ連合会独自の仕様で、革命を起こせるのは同じ数字のカード10枚からだ。 「ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス……」 カエちゃんだって、つい昨日まではスーパー大富豪の参加者だった。今日追試があるのはわかっていた。わかっていたけど昨日まで参加してしまった。補講が終わると、その解放感で、つい。 そして今、ブツブツとローマ帝国五賢帝(ごけんてい)の名を唱えながら、大後悔していたりするのだった。 「ハドリアヌス…… アントニヌス=ティヌス…… ティウス……」 「エンギョドンティウム」 「アントニ…… ウス…… ドンティウム…… ?」 ここでカエちゃんは気付いた。 横から謎の単語を呟いてきたのは、郷土研究部、略して郷研(きょうけん)のたかちーだった。いつの間にそこにいる! 腹立つことに、彼はこないだの期末テストでは世界史で98点をマークしている。 「ちょっと、横から変なこと言わないでよ!」 カエちゃんが焦って叫んで、たかちーが笑った。 いや私は笑われている場合じゃないんだよ! 「あと30分でローマ帝国終えなきゃならないのに!」 「え、追試30分前なのに、まだソコ終わってなかったんだ……」 「とにかく邪魔しないで!!」 「てかさ、カエちゃんは世界史の期末、何点だったの?」 たかちーに直球で聞かれた。 「…… 10点」 カエちゃんは、出来るだけ小さい声で答えた。 「10点!? え、マジ? 取ろうと思って取れる点数じゃなくない?」 「私だって、取ろうと思って取ったわけじゃないんだよ!」 カエちゃんはちょっと泣きそうだった。 「ヤベー…… なのに、昨日までずっとトランプやってたわけ?」 たかちーはドン引きしていたが、カエちゃんは痛いところを突かれ過ぎて返事もできない。 「そういう訳だから!」 やっとそう言って、カエちゃんは再びローマ五賢帝に戻った。 「ネルヴァ…… トラヤヌス……」 「エンギョドンティウム」 「エンギョ………… あーもう、入って来ないんだけど!」 「いや、ここでまた落ちて、大人しく再補講と再追試受けなよ。このレベルじゃ、なまじ受かるとかえってまずいよ」 たかちーの意見は大局に立った正論だ。しかしカエちゃんは力なく呟いた。 「でも私の夏休みが……」 「いいじゃん、世界史なら俺も見てやるからさ」 思いがけない言葉にはっとカエちゃんが顔を上げると、たかちーがすぐ目の前で、照れ臭そうに笑っている。 え。 そう頭の中で呟いて、次の瞬間カエちゃんも、なんだかメチャメチャに照れてしまった。 こんなわけで、五賢帝どころか、カエちゃんの頭から世界史の全てが消えてしまったのが、追試開始10分前のことだ。 追試直後、先生は採点すらせず、カエちゃんの解答用紙をチラっと見ただけで彼女に再補講と再追試を(おごそ)かに告げた。にもかかわらず、なんだかご機嫌な彼女の様子に、先生が不審の目を向けていたのは言うまでもない。 そんなわけで、エンギョドンティウムというのは、世界史の勉強をしている人を邪魔するためにふと頭に浮かぶ単語です。
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