第一章──残していくことの意味

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 ──平成6年9月14日 1限目──  チャイムが響き渡り拓斗は席に着いた。誰とも顔を合わせたくなかったが仕方ない。昨日眠れず目は赤く腫れ上がっていた。きっとこの顔を見て和希は心配して声を掛けてくれたのだろう。拓斗は昨日の夜から夢の中にいる気分だった。しかし一睡もしていない。  ──明日から世界が変わるのか? それとも冗談?──  あんな真剣な表情で語られれば、冗談ではないことくらい誰でも分かる。拓斗は今年の春に高校生になったばかりだ。卒業前には必死で勉強していた。その時、父の博之は家にいなかった。会社で倒れ入院していたからだ。知らせを聞いた時、母の清海は大丈夫だから、大丈夫だからと拓斗にいつも声を掛けた。心配いらないからと拓斗は受験に向けて専念しなさいと言われ続けた。  清海は笑っていた。博之が倒れこの家に暫くいなくなってもずっと笑っていた。そんな清海の態度にいつしか拓斗も大丈夫なんだと安心し勉強に専念した。  しかし昨日の夜、一瞬で崩れ去るような真実を聞かされた。    ──あの笑顔は嘘だった──  清海の笑顔で騙されていた。すべてが嘘だった。だからと言って清海を責める気にもなれない。泣き崩れる清海を見て辛さが分かったからだ。 「おい神崎!」  遠くから声がした。すると近くからも違う声が追うように拓斗の耳へ入ってくる。 「拓斗! 拓斗ったら」  遠くからは強く名字を呼ぶ声が、近くからひそひそと名前を呼ぶ囁き声が聞こえる。はっと拓斗は昨日の出来事から現実に戻された。囁いていた和希はばつが悪そうに頭を掻いた。教師の山本(やまもと)は余計なことはするなと言わんばかりに和希を一瞥し、神崎を軽く叱った。 「神崎何ぼんやりしてる? 寝不足かっ? いくら今年入学して一年だからって、今のうちにしっかりやっとかないと後々、後悔するぞっ」  山本はわざわざ拓斗の机の前にまで来て見上げる拓斗にチョークを渡した。 「おい、あの黒板の例題……数式を解いてみろ。もしかしたら徹夜でもして勉強してたら申し訳ないからな」  皮肉たっぷりに山本は拓斗を見下ろし顎で黒板の方を指した。 「すみません。分かりません」  拓斗は黒板を見ることもなく俯いたまま、あっさり降参した。今日は山本の皮肉のこもった声がどうでもよく聞こえた。ただ一言、山本の言葉が耳にこびり付いたものがある。 「でも先生……そうですよね。今までしっかりとやってこないと後悔することってあるんですよね……」  山本は言葉に詰まった。拓斗は山本の答えを待たずに続けた。 「ほんと今まで何やってたんだろって後悔してますよ。なんでその時まで後悔するって気づかないんだろって……」  何を言っているか分からない山本はふんと鼻を鳴らし拓斗に背を向けた。  チャイムが鳴り、拓斗に一限目の終了を伝える。    ──まだ何もない。まだ何も起きない──
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