第一章──残していくことの意味

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 ──平成5年7月某日── 「えっ、手術?」  拓斗は椅子から立ち上がり聞き返した。椅子をひっくり返すような勢いだ。 「仕事の疲れで倒れたんじゃないの?」 「実は検査の結果、腫瘍が見つかったみたいなの。だけど心配しないで。悪性じゃないみたいだから」  キッチンで洗い物をしながら背を向けたまま清海は答えた。やけに洗い物の音が煩く聞こえる。 「そうなの? 早期発見ってやつ?」  椅子に浅く座り直し天井を見上げた。一呼吸置いて清海は拓斗の方を振り返り笑顔を見せた。 「そう、だから何も考えなくていいから。手術が終わったらちょっとだけでもお父さんに顔見せなさいよ。でも今は受験が第一優先だから」  すぐに拓斗に背を向け清海は掛けてあるタオルで手を拭いた。 「分かった。とりあえず頑張るよ」  拓斗は残り少なくなったアイスコーヒーを飲み干した。カランとグラスの中の氷が鳴った。 「ごちそうさま」 「そこに置いておいていいからね。それから暫くは母さん泊まりになるから、ちゃんと静流の言うこと聞くのよ」 「分かった」  拓斗は立ち上がり清海の背中を見た。 「母さん無理するなよ」  空のグラスを置いたまま拓斗は自分の部屋に戻った。清海は背を向けたままだ。空のグラスから水滴がゆっくり流れる。清海はふっと溜め息をついた。 「拓斗にはこの顔を見せられない……後どのくらいこんなことを……」  清海は肩を震わせ呟きかけたが、はっとして時計を見た。 「もうこんな時間……」  忙しく病院へ行く準備をする。バッグに必要なものを詰め込んだ。軽く身支度を済ませた後、拓斗の部屋をノックし外から声を掛けた。 「じゃあ、後よろしくね」  清海は博之の元へ向かった。 「後悔しないようにしないとな」  拓斗は春に笑えるようにペンを走らせた。
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