3 定年退職一年生 正蔵

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 あまり寝付けずに、朝早く目が覚めた。 「おい、稚子(わかこ)、メガネ取ってくれ」  隣で眠っている妻に語りかけた。  返事はない。  そうか、出て行ったんだったな。  起き上がって布団を畳む。  箪笥からポロシャツとズボンを出して着替える。  パジャマを洗濯機に入れて、スイッチを入れて回す。  ほら、俺にだってできるじゃないか。  出来上がった洗濯物は、なんだかしわくちゃだった。  次は飯だな。  米、米はどこだ?  じゃがいもしか見当たらないじゃないか。  仕方がない。  芋の煮たのでも作ろうか。  芋はドロドロに溶け、鍋底は焦げて真っ黒になった。  腹が立って鍋を流しに放りだした。   小銭を持ってコンビニに行き、カップ麺を一つ買った。  家に帰ってカップ麺に湯を入れて、啜る。  なんでこんな事になったのか、考えても分からない。  ただ、一人の家はとても静かだと感じた。  かつて、妻の話しや子どもの声が「うるさいな」と思っていたのに。  今は静かな事が、とてもさみしい。  堪らずにテレビをつけた。  くだらない芸能ニュース。  興味もない情報番組。  妻がつけていたテレビを、「そんな低能な番組を観て」と、文句を言ったことを思い出す。  どんな声でもいいから、人の声が聞きたかった。  今は、自分がかつてバカにしたテレビ番組に助けられている。  こどもが巣立ち、自分は仕事三昧。  家に一人の妻も、寂しかったのだろうか。  妻が出て行って初めて、オレは、妻の心情について考えた。  
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