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こんな気分の時は、憂さ晴らしに外で飲むのもいいだろう。
知らない道を曲がって曲がって。
辿り着いたのは、一軒の店だった。
飯屋風でもあり、飲み屋風でもある。
丸太小屋風でもあり、長屋風でもある。
不思議な作りの店だった。
木製の看板に「おかえりの店」と書いてある。
「変な店だな」
思わず呟いたが、魚を焼く香ばしい香りが漂って来て、オレは思わず扉を開けた。
開けた瞬間に、柔らかい笑顔の店主が言う。
「おかえりなさい」
なんだ、この店。
そう思ったのに、口が勝手に開いた。
「うむ。ただいま」
あまりにスムーズに答えて、少しだけバツが悪くなり、黙り込む。
「カウンターかテーブル、どこでもお好きな所にどうぞ」
気さくな店主の笑顔に惹かれて、カウンターに腰をかける。
店主が鯵を焼いている。
「なんだ、ただの焼き魚か」
思わず出てしまったオレの言葉に気を悪くするでもなく、店主が頷く。
「はい、ただの焼き魚です。ところがね、これ、美味しく焼くのが難しい。若い時分には何度も失敗して先代に叱られましたよ」
「魚を焼くだけだろう。魚の鮮度が良ければどうしたって旨いに決まってる」
妻にも言ったな。そう思いながら憮然として言うオレに、店主が朗らかに笑った。
「それがねぇ、失敗するもんなんですよ。塩を振りすぎたとかはまだ可愛い方。丸焦げにしたり、半生だったり。鱗を取り忘れたり。焼き方によって魚ってのはシットリできたり、パサついたり。思うようにならないものなんです」
店主の話に驚いた。
「焼くだけなのに、鱗を取るのか?」
「魚にもよりますけど、大抵取りますよ。皮目をパリッと焼くと美味しいけど、鱗が付いていると口当たりが悪くなるのでね。たかが焼き魚、されど焼き魚、なんですよ」
酒の気分ではなくなった。
「俺にも焼き魚、定食で頼むよ」
「はい」
返事をした店主は、オレの前に焼き上がった鯵に大根おろしを添えてを差し出した。
白米に味噌汁、漬物。
皮がパリッとしているのに、身はシットリと脂がのっている。
一口食べて。
妻に対して、後悔の念を覚えた。
じんわり浮かんだ涙を隠すように、白米を頬張った。
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