3 定年退職一年生 正蔵

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 こんな気分の時は、憂さ晴らしに外で飲むのもいいだろう。  知らない道を曲がって曲がって。  辿り着いたのは、一軒の店だった。  飯屋風でもあり、飲み屋風でもある。  丸太小屋風でもあり、長屋風でもある。  不思議な作りの店だった。  木製の看板に「おかえりの店」と書いてある。 「変な店だな」  思わず呟いたが、魚を焼く香ばしい香りが漂って来て、オレは思わず扉を開けた。  開けた瞬間に、柔らかい笑顔の店主が言う。 「おかえりなさい」  なんだ、この店。  そう思ったのに、口が勝手に開いた。 「うむ。ただいま」  あまりにスムーズに答えて、少しだけバツが悪くなり、黙り込む。 「カウンターかテーブル、どこでもお好きな所にどうぞ」  気さくな店主の笑顔に惹かれて、カウンターに腰をかける。  店主が鯵を焼いている。 「なんだ、ただの焼き魚か」  思わず出てしまったオレの言葉に気を悪くするでもなく、店主が頷く。 「はい、ただの焼き魚です。ところがね、これ、美味しく焼くのが難しい。若い時分には何度も失敗して先代に叱られましたよ」  「魚を焼くだけだろう。魚の鮮度が良ければどうしたって旨いに決まってる」  妻にも言ったな。そう思いながら憮然として言うオレに、店主が朗らかに笑った。 「それがねぇ、失敗するもんなんですよ。塩を振りすぎたとかはまだ可愛い方。丸焦げにしたり、半生だったり。鱗を取り忘れたり。焼き方によって魚ってのはシットリできたり、パサついたり。思うようにならないものなんです」  店主の話に驚いた。 「焼くだけなのに、鱗を取るのか?」 「魚にもよりますけど、大抵取りますよ。皮目をパリッと焼くと美味しいけど、鱗が付いていると口当たりが悪くなるのでね。たかが焼き魚、されど焼き魚、なんですよ」  酒の気分ではなくなった。 「俺にも焼き魚、定食で頼むよ」 「はい」  返事をした店主は、オレの前に焼き上がった鯵に大根おろしを添えてを差し出した。  白米に味噌汁、漬物。    皮がパリッとしているのに、身はシットリと脂がのっている。  一口食べて。  妻に対して、後悔の念を覚えた。    じんわり浮かんだ涙を隠すように、白米を頬張った。
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