そんな時はパンケーキを焼いて

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築32年のコンパクトマンション。白一色の建造物。 長い時間が過ぎる間にあちこち汚れてひび割れて、元の白さは保っていないけれど。 ここは私たちの城。二間しかないけれど。家賃5万4千円の物件だけれど。 私たちの城。安住の地。居間のクロスは剥がれてみっともなくて何度管理会社に電話入れても対応してもらえなくて、仕方ないから慣れないDIYなんかして余計汚くなっちゃったけど。寝室のクローゼットの引き戸は右側がバカになっててきちんと閉まらないけれど。 誰にも邪魔なんてさせない。ささやかな幸せを大切に育む、そんな私たちを土足で踏み躙ろうとする人がいる。ちっぽけな安息さえも味わう資格はないとかなんとか。冗談じゃない。どこをとっても最低限の暮らしを失うってことは、もう死ぬしかないってことじゃないの。 何であんたなんかのために。冗談じゃない。冗談じゃない!  あの夏、振り返った私自身がゾッとするほどに調子に乗っていた。やることなすこと全て上手くいった。逆ナンパパ活おいしいバイト。カネなら捨てるほどあった。実際捨てたりした。見るからに貧相なおっさんの顔を10枚の1万円札で叩いたり。土下座して靴舐めたらくれてやると言ったら本当にやりやがって。「きったな!」って口から出た時はおっさんの後頭部靴で踏んづけてた。あまりにも気持ち悪すぎて3万円しかあげなかったら恨まれてさ。大分長いことつけ回されたけどゲットしたパパにやっつけてもらって。 すごい助かったな、あの時。パパも優しかった。おカネいっぱいくれたしいっぱいエッチしていっぱい遊んでいっぱい笑って。 「ちえちゃんに会わせたい人がいる」 って言われたの、断っていたらどうなったかな?え、いいよって断ればパパはそれ以上何もしなかったと思う。でもそれ断っていたら陸人に会えてない。陸人はあの人といた。あの人のところへ行ったから陸人に会えた。 人生の一番大切なものと一番要らないものと。あのパパとはそれきり。私を持て余していたんだってあの人に言われたけど信じていない。関係は良好だった。誰に迷惑かけるでもなく割り切って遊んでいた。パパは優しい人だったし私を手放したいなら私が傷付かないように、そう打ち明けてくれたよ。きっと。 80過ぎのじいさまが私とエッチしたいって言ってるって聞かされたとき、思わず笑っちゃったんだけどあの人それずーっと引きずっててさ。執念深いというかなんというか「もうそんなのどうだっていいじゃん」って言いたくなるようなことに拘られてもこっちも困るわけよ。高そうな着物着て髪真っ白で髭も真っ白で杖ついて。 「こんなじいさまと?やれって?」 無神経だ怪しからん!だったかな。凄い大きい声出すからビビった。ビビりすぎて後何も言えなくなった。怖いと思った。怖い人は嫌いとも。 でも嫌い、イヤだと訴えても誰も聞いてくれなかった。じいさまは私の体を徹底的に弄んで偉そうに指図した。俺の言う通りにしろとか言うことをきけとか。自由にやってる身としては突然出てきた爺さんにそんなこと言われても困っちゃうわけよ。だけどじいさまは何故か私を気に入って片時も離してくれなくて、気が付けばじいさまの家で暮らすようになって。 数寄屋造りというのだと教えてくれた、木だらけの家は豪華だった。奥さんいるのに私を連れ込んで住まわせてちょっと気まずかったけど、奥さんは慣れたもんなのか私なんかに目もくれなくて。それはそれで助かったけど。 じいさまの部屋はだだっ広い和室だったけどその奥に小さな和室がもうひとつあって。そこが私の部屋だった。 何とかって職人がこさえる布団だって言ってた。確かにフコフコで気持ちよかった。じいさまは私をそこで愛撫した。じいさまの気が済むまでだから10分で終わることもあれば、一晩中ってこともあって。一緒にいるときに死なないでねって何度かお願いしたけど笑われるだけだった。自信があったのね。 じいさまとやるなんて気持ち悪すぎて無理と思ってたけど、一緒に住むようになってからはそんなに嫌でもなくなって。決して良くはないのだけれど何というかこう「いやー!無理無理キモイキモイキモイ!!」みたいな感じはなくなってた。じいさまは私の乳首をとても美味しそうに舐めるから「キャンディみたい?」って聞いたら「お前のは極上だ」って。スケベってああいう人のことを言うんだろうね。 陸人はじいさまに飼われてたの。私にするみたいに陸人を弄んでいて、それをある日の朝いきなり見せるもんだから驚いて。陸人は綺麗な顔してるのにニコリともしないでじいさまを受け容れてた。陸人に何度もキスをして陸人はそれを何度も受け入れて。じいさまにしゃぶられたり舐められたりするのに、私のことなんて見えていないみたいにするから私は逆にじっくりと見てやった。じいさまと、陸人が「やる」ところを。 陸人が吐き出したものをじいさまはとても美味しそうに飲み込んで、陸人を抱き寄せ何度も口づけた。嫌な顔一つしないで陸人はじいさまに愛を伝えていた。 「僕は景朋様が大好きです」 「景朋様は僕のこと好きですか?」 「どのくらい好きですか?」 陸人が尋ねることは毎回決まっていて、その度じいさまはとても嬉しそうに陸人を愛でていた。 「おい、お前もこっちにこい」 陸人は私とは違って牢屋に入れられていた。屋敷の三階、じいさまは足が悪いからエレベータで上るんだけど、ついた先の床がピカピカなのに感動した。徹底的に磨かれた木目は歩けば鏡のように私の姿を映した。廊下を左に曲がって少し、右手にある襖を開けば同じくピカピカに磨かれた部屋に格子があって、陸人はその奥に佇んでいた。白い布を纏っただけの痩せた男。それが陸人への第一印象だった。よく見れば美しい顔立ちをしていて、でも表情はなくて、好奇に満ちた私の目線を避けることはしないで、じいさまのされるがままにされていた。 陸人と愛し合ったじいさまはこちらに軽く手招きして呼び寄せる。しょうがないから近付くと「お前も脱げ」という。え、嫌だなと思ったけれどここでじいさまの「命令に背くことは許さん」から大人しく従う。私はじいさまが大好きなピンクハウスのワンピースを着せられることが多かった。浴衣だったり着物だったり季節に応じて要求が変化することはあったけれど、陸人みたいにどうでもいい恰好をさせられたことは丸一日エッチするだけの日だって1度もない。 その日は赤いワンピースを着ていて私はそれをそっと脱いでじいさまに寄り添った。じいさまはふふふと笑いながら私の胸や尻を揉みしだき、私の反応を楽しんだ。ふと陸人の顔が視界に入り「この人死にたいのかな?」とちょっとだけ思った。絶望に打ちひしがれているように見えたから。じいさまの寵愛を受けて私は暫く陸人を眺めた。じいさまは私を楽しんだ直後陸人を再び抱き寄せる。色白でほんの少しだけ難しい表情を浮かべる美少年。 「この人いくつなの?」 じいさまに聞いたけど教えてくれなかった。陸人には聞いたらいけない気がしたし陸人も私に無反応だ。多分同世代と自分を納得させじいさまと陸人の喜悦に耳を貸した。ごろんと仰向けに寝転がれば立派な屋台骨が見える。梁が左右に走り大黒柱が鎮座する。じいさまの喘ぎ声が聞こえるからふと目をやると、陸人は私を凝視しながらじいさまの局部に吸い付いている。ああ、この人は私に嫉妬しているんだとそこで気が付いた。じいさまの寵愛を受けるのは自分だけと信じていて、突然の珍客に面食らってしまったのかと。私は陸人に微笑んだ。「私はなんでもないよ」と唇を動かして伝えた。陸人は瞳に驚くほどの動揺を見せたが、何を言うでもなくじいさまの欲望を満たしてやっていた。この日陸人と3回戯れたじいさまは気が済んだのか、それきり陸人の部屋に私を連れることはなくなった。だから陸人と会うことはもうないのだと思っていた。あの夏の日までは。 かき氷をじいさまは好んだ。行きつけの茶店はエアコンがいい具合にきいていて、店主手作りの蜜も美味しくて私は大好きだった。茶店に行くとじいさまが言うならいつも大人しく着いて行った。イチゴだったり抹茶だったりその日の気分でじいさまも私も注文を済ませる。そこへ陸人が不意にやってきたのだ。 「おお」 じいさまは陸人に合図し陸人はじいさまの隣に座る。どれくらいぶりだろう?と私は記憶を辿る。立派な大黒柱を見たあの日、春の訪れを感じさせる陽気だったように思う。黒髪を長めにカットしたヘアがよく似合っている。ジーンズに黒のポロシャツも。 「久しぶり」 私は声をかけた。軽くおでこを動かして陸人は応えた。ブルーハワイをじいさまは注文して、陸人の前に蒼が沁みる氷が涼しげな容器に盛られ置かれた。 「ブルーハワイ好きなの?」 どちらともなく尋ねれば 「こいつの好みは熟知しとる」 じいさまは得意気だ。よっぽど気に入ってるんだなと感じた。陸人はじいさまにいただきますと断ってスプーンを手に取った。私は何の挨拶も無しに食べ始めるし終えたところで何も言わないでいることを、この時ほんの少し恥じた。 それぞれが氷を楽しみじいさまと陸人、じいさまと私がそれぞれ会話を楽しみ、夏の昼間は過ぎていく。  じいさまは私を連れて買い物に行くという。「この子は?」と聞いても返事をしない。陸人はじいさまに会釈して去っていく。 「あの子も外出することあるのね」 といえばそんなの当たり前だろうとじいさまは言う。じゃあの牢屋は?と疑問に思ったがあのスペースがあの子の部屋とはそういえば限らないのだと気付き、私は大人しくじいさまの後をついていった。 陸人を連れて屋敷を出たのはほんの気まぐれで。 大したことを考えたわけじゃない。陸人は凄く嫌がったけれど 「じいさまいつか死ぬんだよ?じいさま死んだらあんたのことなんて誰も相手にしてくれないよ?すぐ追い出されるよ?」 私の囁きにギョッと目を見開いて、その後何も言わなくなって。 思い当たることが沢山あったのだろう。その時は気付きもしなかったけれど。 逃避行なんてものじゃないけれど。じいさまに飽きたってのもあるし、もっと自由に生きたい願望がむくむくと沸き上がったというのもあるし。とにかくじいさまとの生活を終わりにしたかった。ひとりで出て行ってよかったのだけれど、一応陸人にも声をかけることにしたんだ。その頃には会話するようになっていたから。 「陸人はじいさま好きなの?」 私の直球すぎる問いかけに陸人はとても嫌そうに顔を顰めて 「黙れよ」 え、黙らないよと私は続けた。好きでもないのに一緒にいるって何で?って。 「じゃどうしてお前はあの人と一緒にいるんだよ?」 我に返って考える。どうして、って色んな人が束になって私をじいさまのところへ送り込んだから。生活の面倒なら見てやるって約束してくれたから。お小遣いも沢山くれるから。だけど。 「え?そういえばどうしてだろ?」 陸人は答えなかった。私もそれ以上何も言わなかった。だけど陸人の手を取って屋敷から出て行く日はこの時、はっきりと思い描いていたように思うんだ。 じいさまの元を離れてから暫くはそれなりにやれた。私も稼ぐし陸人も稼ぐ。住む場所なんてどうにでもなったし食うに困らない暮らしなんてすぐ手に入れることができた。じいさまの陸人への執念を私は知らなかったから、こんなことができたのだ。 知っていたらどうしたかな? 考えなくはなかったけれど陸人を知れば知るほど助けてあげたくてたまらなくなったし、すぐにそんなことどうでもよくなった。 生まれてすぐ親ではない人の世話にならなきゃいけなくて、どこに行っても愛されなくて爪弾きされて嫌われて。綺麗な顔してるのにそんなの何の意味もなかったって。大きくなるまでは。 じいさまのところへ行くことになった時死ぬつもりだったらしいんだけど、じいさまが用意してくれた布団やごはんが温かくてそれで暫くここにいようと思ったって。じいさまのところにいる理由は陸人も私も変わらないと思っていたけれどまったく違った。陸人にとってじいさまは特別な人だったんだ。 「後悔してる?」 じいさまは私を殺せと命令したらしい。陸人を唆した阿婆擦れを生かしておく理由はないって。陸人は驚かなかった。喜びもしなかったけど。 「だろうね」って短く言ってあとダンマリ。私がそんな風に聞いたら首を横に振ってくれて。嬉しかったな。 どこにいても見つかって連れて行かれそうになって、その度陸人は私を守ってくれて。陸人に手荒なことはできないからいつもどうにか逃げられて。でもそんなのいたちごっこ。大人が本気出すのに私たちを見つけられないはずがない。 「こうなったら遠くに逃げよう」 私のナイスアイディアもすぐにメッキが剥がされて。「地の果てまで追う」というじいさまの発言は、私を追う連中にとって何より重要であるらしかった。どこに逃げても結局見つかる。見つかって陸人を連れ戻そうとするし私を殺そうとするし。首掴まれて体振り回されて殴られて蹴られて。怪我するし「次は怪我じゃ済まねぇぞ」ってあいつらの脅しがあいつらに追われる度に、肉と骨にズキンと響くようになって。陸人を返せば穏便に済ませると言われても信用できないし、そもそも返す気なんてない。 「嫌よ!陸人は私のもの!」 色んな思いが混ざってそんな風に言ったんだけど、あいつらはそれをどう受け止めたのか、私をじいさまの恋敵みたいに思いやがってそれまで以上に苛烈に追われるようになってしまった。 「陸人だけでも逃げて」 私の呟きを陸人は聞き逃さなくて、私を置いていく陸人ではなくて。 結局逃げて逃げて逃げ回って、本州からかなり離れた町にやっと腰を落ち着けられてホッとしたのも束の間、見覚えのある男がうちのベランダを窺っているのを見てしまった。洗濯物を干しに外に出る前でよかったと思う反面、これをきっかけに今まで干していた洗濯物を干さなくなったら「ここにいます」と教えるようなものかと逡巡して。 考えるだけ考えて、私はベランダに出て洗濯物を干した。 男はじっとこちらを見ていたけれど、震えが止まらなくて参ったけれど、私は挫けなかった。誰かに連絡を入れている様を目の端に留めた。終わったと思った。けど違った。 「大分譲歩してもらってるんだからな。それを忘れるな」 何もできない自分が恨めしい。陸人を助けられない自分が恨めしい。 じいさまは私のことはもうどうでもいいから、とにかく陸人だけでも連れ戻せと命令したって。陸人が私を守っていると聞かされても信じなかったじいさまは、いつまで経っても陸人が戻らない現実に漸く向き合う気になったらしくて。 陸人、連れていかれちゃった。喉つぶすくらい喚いたけど。暫く動けなくなるくらい暴れたけど。助けられなかった。何もかも諦めたような顔をして陸人は、あいつらとこの部屋を出て行った。古いマンションの一室。やっと見つけた住処。辿り着けたはずの安住の。 泣くこともできなくて何日経ったか分からないくらい時間は過ぎて、ボロ雑巾のように生きる私の元へ帰ってきてくれた。陸人は。 抱きしめようとする私を抱きしめてくれて、陸人は掠れた声で言ったんだ。 「ただいま」 だから私は答えた。 「おかえり」 じいさまの要求から逃れられないけれど。じいさまが望んだなら陸人はじいさまのところへ行ってしまうけれど。でもずっとじゃないって。たまに「そっちに戻す」って。じゃないと陸人はこちらへ戻ってこないからって。 どんな密約があったのか知らない。じいさまにとって私の代わりはいくらでもいるけれど、陸人の代わりはいなかったんだな。陸人を奪った憎き恋敵は殺していいけど、陸人が大切に思う女性なら手を出すな。じいさまの考えはそういうことで、陸人を愛しているじいさまは私に相当嫉妬したらしいけれど、今も「殺してやりたい」と陸人に呟くらしいけれど。陸人がそれを嫌がったら何も言わなくなったって。 陸人の気持ちは分からない。また逃げる?と聞いたら嫌だと言われた。 「もういい。疲れた」 自分が犠牲になればいいと考えているのかな。そんな風に思ってしまって凄く悲しくなったけれど、陸人の心の中に土足で入れないから。陸人が「いい」というのなら私はそれに従う。私の嫌がることを陸人はしない。陸人は私をとても大切にしてくれるけれど、私と繋がったことはない。できる気がしないって。同じベッドで眠っても私を抱きしめるだけ。私は何も求めないし何も言わない。陸人の呼吸を、心音を、体温を、大切にしたい。それだけ。 陸人がじいさまの元から帰ってくる日はパンケーキを焼いて。だって陸人は大好きだから、パンケーキ。イチゴをのっけるだけでもすごく喜んでくれるから。私はパンケーキを焼くの。 大切な部屋で大切な人を待って。大切な人と同じ時をずっと過ごすために。
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