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顔を見るのが怖くて、目を合わせないようにして言った。できれば声も出したくない。
「いえ……」
社長も緊張しているのか声は小さめだ。
沈黙が数秒間続く。二人だけの密室での沈黙はいたたまれない気持ちにさせられる。
かといってなにを話そう。できればもう、この沈黙のまま会食を終えた方がいいのではないかとさえ思う。
長い沈黙を破り口火を切ったのは社長だった。
「有紗さん、最初に言っておかなければならないことがあります」
色気を含んだ甘い声につられて顔を上げると、今度は完璧すぎる顔立ちを直視してしまって慌てて目を伏せる。
「は、はい。なんでしょう」
緊張で胸が押し潰されそうだ。自分の名前を呼ばれたわけではないのに、話し掛けられただけで赤面してしまう。
「お時間を作って会っていただき大変申し訳ないのですが、今回のお話はなかったことにしてもらえないでしょうか?」
「え?」
驚き顔を上げた私と社長の目が合う。その瞬間、社長の頬は赤くなり、慌てて目を逸らし饒舌に喋り出した。
「あの、有紗さんに不満があったということではまったくないです。むしろ、とても可憐で百合のように美しく素敵な女性だなと思っています。……って、俺はなにを言っている」
いつも冷静で笑った顔すら見たことのない社長が慌てている。
「お断りすることは有紗さんが来る前に決めていたことです。今回の話は、親同士が勝手に進めたこと。わざわざお時間を作っていただきお会いする前にお伝えできたら良かったのですが、そういうわけにもいかなかったもので……」
社長はとても言いにくそうに、困った様子を浮かべながら必死に弁明している。
社長は今年三十四歳だったはずだから、年齢的にも周りから結婚を急かされているというのは想像できる。
気乗りのしないお見合いに無理やり出させられたのは、社長も同じだったらしい。
こんな社長を見るのは初めてだ。思わず目を細めて微笑が零れると、社長は不思議そうに首をかしげた。
「私も、今回のお話は最初からお断りしようと思っていました。言いにくいことを先に言っていただき、ありがとうございます」
笑顔で告げると、社長は安心したように微笑んだ。
なんだ、最初から社長も断るつもりだったのね。良かった。
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