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約束を違える
結局、入籍までの半年間、毎月家賃を払うように要求しても、桜井さんは瞬時に怒り狂って私を怒鳴りつけ、ただの一度たりとも払わなかった、ビタ一文。だが、入籍すれば借上げ社宅になるので、これでようやく家賃を払ってもらえることになるのだ。やれやれ……。
私は物心つく前から肉親たちから虐待を受けていたので、一年と少し前に親よりも桜井さんを選んで「卒業したら家を出る」と宣言した。その際に父親から、「お前が将来結婚するときも何もしてやらない」それに「親戚たちにも手を回してお前の結婚式には列席させない」と言われていた。
だから彼からプロポーズされたとき『挙式披露宴ナシ』を条件で結婚することを承諾したのだ。彼もそれで納得してくれたので、私たちは婚約していた。
その事を再度確認し合い、二人で彼の両親に婚姻届の提出の意志を報告しに行くことになった。報告であって相談ではない。
しかし彼は両親の前で、「入籍しようと思うんだけど……」とだけ言ってなぜか黙り込んでしまった。どうやらそれで彼の父親は、てっきり私たちが結婚の相談をしに来たと思ってしまったらしく、本棚から分厚い冠婚葬祭事典を取り出してダイニングテーブルの上に開き、何やら調べ出した。
父親が「結婚式はこうこうで、披露宴はこうこうで……」と読み上げると、なぜか彼はコクコクと頷いて聞いている。私は彼が、「いえ、お父さん。実は僕たちは話し合いの結果、『婚姻届を提出するだけで挙式披露宴一切ナシ』ということで合意したんです」と説明するのを待った。
ところが彼はいつまでもいつまでも黙ってコクコクコクコク頷いている。ああ、そうか。とりあえずお父さんには気が済むまで言いたいだけ言わせておいて、その上で「いえお父さん。実は僕たちは……」と話を切り出すつもりなのかと合点した。
そして彼はいつまでもいつまでも、コクコクコクコクしている。長過ぎるだろう。こんなに長々と喋らせておいて結局拒否するのは、却って気を悪くさせてしまう。もういい加減、「いえお父さん」と切り出さなくては……。
彼の父親はとうとう、「じゃあ仲人は北白川さんにお願いしなさい」と具体的な名前まで出して言った。
さあ、今だ。今、切り出すんだ! 私は隣に座っている彼の脚をテーブルの下で軽く蹴って合図した。弾かれたように彼は「うん、うん」と言いながら、重々しく二度も大きく頷いてしまった。
ハァ? 私があっけに取られていると、彼はなぜかウキウキと北白川さんに自ら電話をかけ、仲人の依頼を始めてしまう始末。
私は目の前で起こっている事が、現実なのか悪い夢なのかわからなくなってしまった。あれだけ説明して「挙式披露宴ナシで婚姻届を提出するだけ」ということで納得してくれたはずなのに。彼が私に一言の相談もなく、一瞬にして約束を違えてしまったのが信じられなくて、気分が悪くて吐きそうになった。
幸い北白川さんが仲人依頼を断ってくれたので、その日は帰ることに。
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