「ただいま」と言ったら「お帰り」と返して

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****  私が会社に出たら、びっくりするくらいに腫れ物に触るような扱いを受けてしまった。  そりゃそうだ。結婚したと思ったら、その三日後に葬式をしているんだから、周りからしてみればわずか三日で未亡人だ。  よくも悪くもそのおかげで、頭の回転が鈍くてもできる仕事しか回されず、程よく忙しくて程よく頭を使わない仕事のおかげで、大きなミスもなく仕事復帰の一日目を飾ることができた。  でも。 「……疲れたなあ」  体こそそこまで疲れなかったものの、変な気の使われ方をすると心労がかさむ。  疲れると食事の仕方を忘れてしまう。  肉を食べようか。でも、今は肉を食べる元気もない。野菜。野菜を料理する元気もない。なにだったらちゃんと食べられるかな。  ひとりでそう黄昏れているときだった。 「あっ、寿葉ちゃん!」  バイトのTシャツを来た遠矢が手を振ってきた。それに私は驚く。 「遠矢? 今日はバイト?」 「うん。配達に行ってた」 「今時中華料理屋は配達は業者に頼んでるかと思ってた……」 「遠くならともかく、近場は店員が行ったほうが早くない? それよりさあ。ちょっと買って欲しいものがあるんだけど」 「なに」  遠矢は要領がよく、あざとい。次男というものは、上の失敗を見て育っているせいで、必然とそうなるらしいけれど、私は実例を遠矢以外知らないからそれが一般的なのかどうかはよく知らない。 「麻婆豆腐! どうも注文受けた子が量間違えたらしくってさあ。ひとつ売れ残ったんだ。お願い、買ってくれない!?」  そう言って手を合わされた。ひとつ分の麻婆豆腐のパッケージが見える。  麻婆豆腐か。肉にネギが一杯。山椒や花椒の匂いが心地よく、お腹の奥がキュルリと鳴る。 「わかった。いくら?」 「はい、これ値段」  見せてもらった領収書を見ながらお金を支払い、私はそれを受け取った。 「ありがとう! ちゃんと真っ直ぐ帰りなよ」 「はあい、遠矢も仕事頑張ってね」 「はーい!」  そう言いながら、私は家に帰って、インスタントのご飯を電子レンジでチンして、麻婆豆腐と一緒にいただいた。  目尻から涙が出るほどからいはずなのに、香りが強くていくらでも食べられる。それはご飯とよく合い、気付けば麻婆豆腐とご飯はあっという間に空になった。  私は冷蔵庫から烏龍茶を取り出して飲み干す。直矢のよく買っていたメーカーの烏龍茶、また買わないといけないな。 「なんかね、直矢。私たちの弟、健やかに育ってるみたいよ」  遠矢が健やかに育っているのを見守る。再婚する意志のない私からしてみれば、それでいいのかもしれないと漠然と思った。 ****  私が仕事に追われ、遠矢も大学とバイトに励む。  胸に空いた穴はちっとも埋まる気配はないけれど、直矢がいない日常の慣れてきた。もっとも。慣れてきただけで、完全に痛みが消えた訳ではなく、直矢が好きだったもの、大事だと言っていたものにぶつかると、突然涙腺が壊れてしまうことがある。  既に直矢が死ぬ前には解散していたバンドが、唐突に活動再開したとネットニュースに流れてきたのを見た途端に、私は電車のホームにもかかわらず、ドッと泣き出してしまい、周りはぎょっとしたように私を見た後、私が持っているスマホの画面を見て、微笑ましいものを見られる目で見られてしまった。  周りからしてみたら、熱狂的なファンにしか見えないだろう。  そうは言っても、私も直矢が亡くなってからはライブに行ったことがない。チケット取れるかなあと思ってみたものの。 「……二枚じゃないと取れないのかあ」  デジタルチケットは、転売対策でスマホじゃないと変えないし、一緒に見る人も登録しないと駄目だ。  私は遠矢に連絡を取ることにした。 【あの幻のバンドの復活ライブ、チケット取れたら行きませんか?】  打ちながら、私はどうしたもんかと考え込んだ。  私にとって遠矢は普通に家族みたいなもので、そう扱ってきたけれど。でもあの子だって私以外にも付き合いがあるだろう。彼女がいたら失礼だったような。  考え込んだものの、すぐに遠矢からスタンプが送られてきた。  うさぎのマスコットが【いいよっ!】と親指を持ち上げていた。うさぎに指があるとは言ってはいけない。  私は少しだけ胸が温かくなりながらも「これでいいのかなあ」と思わず言ってしまった。  もしかして自分、不幸に酔いしれて、夫の弟の人生を無茶苦茶にしているんじゃないか。遠矢は私にとっても弟だ。でも弟の人生を台無しにして不幸な自分に酔うのはよくないんじゃ。  考え込んでしまったけれど。  幻のバンドが好きな知り合いは他にいないから。  そう自分に言い訳して、強行することにした。我ながらせせこましい。 **** 「寿葉ちゃん、やっぱりここのライブよかったねえ」 「本当に……ドラムの腕がまた上がってた……」 「しばらくはバックバンドばっかりやってたらしいからね。再結成して本当によかったよ。ああ、ラーメン食べる?」 「食べるー」  幻のバンドのライブは、とにかく素晴らしく、私たちはライブのセドリから曲の感想、久々の名曲メドレーの所感から、まさかの新曲発表まで、ひたすら話をし続けていた。話をし続けていたら、体が案外カロリーを求めていて、ふたりでしみったれたラーメン屋へとなだれ込んでいった。  しみったれたラーメン屋は、本当に味はいいものの、人がいない。そこで昔ながらの味の醤油ラーメンを食べながら、ずっとバンドの感想を言い合っている中、遠矢が唐突に言った。 「兄貴も多分、このライブが再結成したら、喜び勇んで行ってたんだろうねえ」  その言葉に、私の箸から麺が滑り落ちた。  ポシャン、とスープに麺が沈む。 「……直矢がいなくなった日常、慣れたはずだったのになあ」 「寿葉ちゃん?」 「唐突に駄目だね。慣れないと駄目なのに、ボディブローのようにずうっとダメージが入り続けるの。私、直矢がいないとここまで駄目になるって知らなかったんだよ。駄目だなあ……私、遠矢を解放しないと駄目だってわかってるのに」 「なにそれ。寿葉ちゃん、どういうこと?」 「だってさ、私と遠矢は兄弟じゃないじゃない。直矢と遠矢は兄弟だけど、私と遠矢は幼馴染であって、幼馴染のよしみで旦那が死んだ私の面倒をずっと見させてさ。それって、無茶苦茶駄目じゃないの?」  酒なんて入れてない。ライブの余韻を酒で流してしまいたくなかったから。ただしらふのままで、アドレナリンだけドバドバと出て、勝手に口の滑りがよくなる。  私の身勝手な言葉を、遠矢は黙って聞いていたけれど、そのあと「はあ……」と溜息をついた。 「あのなあ。寿葉ちゃんがどう思ってるのか知らねえけど、俺は寿葉ちゃん好きだよ?」 「……へえ?」 「そこですぐ恋愛脳になるなし、未亡人が。俺は駄目姉貴が駄目じゃなくなるのを待ってる弟の気分だよ。それに、傷付いている人ってさ、人が思ってるよりもずっと悪い奴らにつけこまれるんだから、寿葉ちゃんに悪い虫付かないようにしないと、兄貴に申し開きできねえだろ」  姉貴。そう呼ばれたことに、不覚にもキューンと来てしまった。幼馴染で、互いにずっと小さい頃から見知っていた相手に、きちんと姉扱いされていたことに、ときめいてしまったんだ。 「……でもさあ」  それでも。可愛い弟だからこそ、困るというものだ。 「私、遠矢の人生台無しにしてない? さすがに遠矢の人生に寄生するのは困るよ」 「してねえしてねえ。俺は駄目姉貴に人生台無しにされるほど、ちゃちな人生生きてねえわ。だからさ、寿葉ちゃんもマジで気にすんなって。俺の結婚式にはちゃんと呼んでやるし、寿葉ちゃんが万が一再婚する場合も応援してやっから。まあ……兄貴と同じくらいまともな人間じゃねえと駄目だけどさ」 「うん……」  私たちは、互いに家の鍵を交換した。 「ただいま」と言って家に帰り、「お帰り」と言って迎える。  本来は私が直矢と送りたかった生活を、なぜか弟の遠矢とするようになった。  でも私たちの間には、どうしても恋愛関係は生まれなかった。  周りからは怪訝に思われた。「なんで?」と。  幼馴染であり、死んだ旦那の弟と未亡人が、そう簡単に次に進めるのかね。時にはきちんとそう説明することもあったけれど、そのほとんどは、「ワハハ」で笑って誤魔化すしかなかった。  いつしかスピーカーじみた妄言も遠ざかり「変なふたり」としか言われなくなった頃、唐突に私たちの変な日常は終わりを迎えた。
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